BEST 2006
 






Dance and Media Japanが勝手に決める今年のベスト!
毎年たくさんの作品を観ますが、DMJとしてしっかりと評価していこうという主旨です。また「なぜDMJがその作品を選んだのか」という理由も明確に記します。


2006年

選者
●飯名尚人(Dance and Media Japanキュレーター/プロデューサー)


対象となった作品
●2006年に上演、展示された作品。新作・再演、国内・海外は問いません。
●ビデオダンスについては、「国際ダンス映像祭2006」で最優秀賞作品がセレクトされています。


ベスト・オブ・パフォーマンス
(ダンス、演劇など舞台芸術全般)
 
カンパニー・モス=ボンテ 『ライト !』  (ベルギー)

[講評]
影を使ったソロパフォーマンスはいろいろある。最近では、フィリップ・デュクフレ作品でも映像や影をよく使っていると思う。しかし、モス=ボンテの影は、芸術性が高い。ただの影、ではないからだ。たとえば、誰しも子供の頃、本の白黒の挿絵を見て、勝手に想像を膨らますという経験をしたことがあるだろう。『LIGHT !』の魅力は、観客の空想力も演出に含まれている。鳥、という言葉も、森、という言葉も出てこないが、鳥と森が見えてくる。森の中を彷徨う子供、という物語も提示されないが、森の中を子供が歩いている。ステージには、パフォーマーが一人。影のすべては、そのパフォーマー(ニコール・モス)によって映し出される。自分でライトを持ち、自分を照らしたりもする。パフォーマーの影は、まったく別の人格を持って背景に映し出され、パフォーマーと影が会話をする。演劇でもない、ダンスでもない、影絵でもない、誰にも真似のできない独自の世界観に吸い込まれる作品だ。

■観客が空想を膨らませる時間を与えてくれる演出

プロジェクターを使った映像演出は舞台芸術でも多くなってきた。個人的に、プロジェクターで映し出す映像というのは似てくると思っていて、独特の青っぽさや、コントラストも黒は灰色っぽく見える。漆黒の闇をプロジェクターで映し出すことが難しいし、白いスクリーンがステージにあると「ああ、映像を映すんだな」とわかって、見る前からなんとなく冷めてしまう。そんなことを思っていた最中、韓国のパフォーミング・アーツ・フェスティバルでモス=ボンテを観た。想像させる、という観客の役目もしっかり残していたし、光と影というテクノロジーがこんなにも豊かな表現を生み出すのか、と驚いた。残酷で、凶暴なシーンも多いが、別に血が出るわけでも、生物が死ぬわけでもない。全体で醸し出す雰囲気が「残酷で凶暴な童話的な世界」という風に観る側が勝手に感じるように作品が出来ているのだ。
映画は光と影の芸術である、と言われる。デジタルの時代になって、光と影という現象で映画という大衆芸術が成立していることも忘れがちだ。かつて映画史家の先生が講義の中で「映画は上映されない限り存在しない」と言ったことを思い出した。つまり、フィルムの裏側から光を当てて連続写真を再生しない限り、フィルムはただの物質なのだ。光と影が映し出す現象を映画館で体感する、ということは、複製芸術と言われる映画に、舞台芸術に近い一回性の緊張感をもたらし、新鮮な感覚にさせてくれる。モス=ボンテの光と影は、テクノロジーとしては原始的だが、古典以前の初期の映画に似た神秘的なスペクタクルを体感させてくれた。







ベスト・オブ・ビデオダンス  
ピーター・チン 『ストリートカー』  (カナダ)

国際ダンス映像祭2006優秀賞作品が対象となります。

[講評]
2006年国際ダンス映像祭(東京)でグランプリを獲得した作品だ。映像の質、ダンスの面白さもあるが、それ以上に30分間という上映時間の中で生まれる謎の時間感覚だ。はじめの5分、10分で起こる出来事は些細なことばかりだ。眼をキョロキョロしたり、指を絡めてみたり、といった動き。クローズアップで映し出される。何か起こりそうで、何も起こらない、というネタ振りの連続だ。時間が経つにつれ、前半のマッタリとした時間感覚が鑑賞者にしみこんでしまっているために、徐々に引き込まれていく。そして抜け出られなくなる。この感覚は非常に説明しにくい。観て頂くとすぐにその感覚がわかってもらえる作品だ。この作品を舞台でやったら、やっぱり面白いのか、というと、それはNOだ。映像(ビデオダンス)だからこそこの面白さが生まれている、ということも受賞のポイントだろう。

病院で医師に何か説明を受ける主人公の男(ピーター・チン)。何か悪い病気を宣告されたのだろうか、複雑な表情をしてる。たまに男の脳裡をよぎる謎の映像。病院を出て、路面電車に乗る。そこそこ混んでいる車内。そこまではダンスっぽいものは一切ない。シリアスなドラマのようなイントロダクション。男は眼を大きくしてみたり、小さくしてみたり、少しずつ挙動が可笑しくなっていく。おかしな挙動は彼だけかとおもいきや、徐々に同乗している人々もおかしなことになってくる。その「徐々に」というのがこの作品のポイントでもある。クスクス、ニヤリ、という笑いだ。もしくは、無表情だが笑っている状態である。このツボにはまると中毒になり、ピーター・チンのなんともいえない顔芸、そして、不思議な音楽をまた体験したくなる。

■映像だからこそ面白いダンスの追求

ビデオダンス、というジャンルが進化している、と感じた。ローザスやラララ・ヒューマンステップスの制作したビデオダンスとも違う。これまでのビデオダンスは、ダンス中心で、どちらかというとダンスのイメージビデオに近いものだ。映像用にダンスを撮影しました、というビデオダンスの時代から、ピーター・チンのように映像として楽しめるビデオダンス、ダンスを知らなくても楽しめるビデオダンスが登場した。カメラの前でダンサーが踊っているだけではなく、映像でしか出来ない舞踊表現の追及だ。クローズアップなどはもちろん初歩的な技法だが、さらに映像の持つ時間の流れ、物語空間の創作などが付加されている。
今年度の国際ダンス映像祭でノミネートされた海外作品11本は、どれもダンスに対する知識がなくても映像としてダンスを楽しめるものになった。映画を観るときに、映画の知識がないと見られない、というのはつまらない。ダンスもそうでありたい。かといって、未熟なエンターテインメントのハシクレのような作品が多いコンテンポラリーダンスにもウンザリだ。デジカメで記録映像のように撮影したビデオダンスにもガッカリだ。11本のノミネート作品は、舞台作品を作るのと同じくらいの予算と時間をかけ、完成度がどれも高かった。その中でもインパクトのあったのが、ピーター・チンの「ストリートカー」だった。しかしながら、国内作品にそうした力作が無いのは残念だ。日本でビデオダンスが生まれにくい理由は分かる。助成金の申請ができないからだ。海外作品の多くは、テレビ局やアートカウンシルが支援し、フィルム撮影やHD撮影を可能にしているし、カメラマン、編集なども映像のプロフェッショナルが手掛けている。ビデオダンスの作品を作る事は、舞台作品を1本仕上げることと同じくらいの仕事量なのだ。だからこそ、質の高い実験的なビデオダンスが制作できる。舞台芸術界での映像への理解はまだ低いと感じる。映画祭の助成金申請でも「ビデオダンスは映画ではない」と言われることも多い。残念だがそれが現状である。そうした中、世界ではビデオダンスのコミュニティーが形成されつつあるし、日本が出遅れているのも一目瞭然だ。まずは、この「ストリートカー」のような面白くて質の良いビデオダンス作品を、もっと多くの人に見てもらうよう仕掛けていく必要性を感じている。

   



ベスト・オブ・テクノロジーアート  
該当ナシ

[講評]
メディア・アート、テクノロジー・アートが、デジタルテクノロジーのデモンステレーションになってしまう時代になってしまった。多様なソフトウェアの利用によってインタラクティブな作品も多くなった。しかし、美術館の入り口に「自動ドア」がある。ドアの前に立つとドアが開く。誰もが日常で何の疑問もなく利用している。美術館の中に入るとその作品も同じように「踏むと光る」「触ると音が鳴る」というものが陳列されている。入り口にあった「自動ドア」とどう違うだろう、と考えてしまう。「踏むと光る」作品を体験したとき、踏むことで私の価値観が変わるかどうか、それが反応することで私の心が揺れただろうか、と客観的に考えてしまう。テクノロジーアートであろうとファインアートであろうと、まずは芸術としての社会的機能を達成していて欲しいと思うからだ。デジタルテクノロジーは社会に貢献している。この技術なくして現代社会は成立しないほどだ。多くのテクノロジーアートが、企業向けのプレゼンテーションに見えてしまい、芸術より先にビジネス、コマーシャルが目的としてあるのではないか、と。作品のコンセプトシートを見せていただくこともあるのだが、技術的提案が全面にあり、作家の創作への枯渇が見えてこないことも多い。残念ながら、今年は該当なし。

DMJではダンスとテクノロジーアートの融合をポジティブに考えているので、いろいろと考えた結果が「該当ナシ」となったが、ギリギリまで悩んだ作品は、Project Phonethica Installation "Rondo" (遠藤拓己/徳井直生)だ。
現在ICC(東京・初台)のエントランスに展示されている作品で、世界のあらゆる言語のデジタル辞書だ。特徴的なのは、「音」で検索するということで、たとえば「鯖」と入力すると「サバ」という音に近い世界中の言語が検索され、再生される。その音声は、その言語を使っている国の方向にスピーカーが移動して、再生される。似た音の言葉でも、まったく違う意味になる。そういった音が世界では鳴り響き、コミュニケーションが成り立っていることに気がつかされる。音楽家ならではの言語へのアプローチだ。グローバル化する世界は言語にも影響が生じる。言語の消滅を辞書で残す、というアイディアもすばらしい。似た音で言語間をリンクするデザインも、デジタル技術ならではの演出だ。メディアアートの可能性の一つにデータベースを使ったものがある。おそらくこの作品は、実用性を重視したもので、展示用に設置したのがこの"Rondo"なのだろうと思う。