POST THEATER
2005/2




www.posttheater.com

ポスト・シアター

〜 何もしらない子供も、メディアアートどっぷりの大人も無条件に楽しめるメディア・パフォーマンス・ユニット〜

メディア・アートとパフォーマンスを組み合わせて「メディア・パフォーマンス」と呼ばれる形式が現れてきました。

ところが一方で、『メディア・アート』が自作テクノロジーの発表会のようになっている、という傾向もないわけではなく、DMJで開催してきたメディア・ワークショップでもいつも議論になる部分です。

もちろん『パフォーマンス』も、どこか捕らえどころのない、曖昧なカテゴライズで「パフォーマンスとはこういうモノだ!」という結論のないまま、言葉が一人歩きしています。

ジャンルがどうあれ、舞台芸術で観客が求めているのは、技術やテクノロジーではなくて、物語や感動であることは確かです。そうした舞台芸術と、かなり厄介な問題を抱えているメディア・アートを、組み合わせて成功しているユニット、というのがあります。
それがベルリン、NYを拠点として活動する『ポスト・シアター』です。






『Last Circus』







〜最後のサーカス。哀愁のデジタルメディア ?!〜

『ラストサーカス』という作品は、2組しか同時に鑑賞することが出来ないパフォーマンスです。

出演者は、老年の座長1人。彼がストーリテラーとなって、進行。観客は傘をさします。その傘を見上げるとに映っているのは綱渡り師が綱を渡っています。自分が動くと映像もついてきて、風景が作られます。
(天井からプロジェクションされていて、傘がスクリーンの役割。)

インスタレーションとして、鑑賞者が好きに遊ぶのではなく、ちゃんと物語を提示してくれることで、この作品の「楽しみ方」を老年の座長を通じて作家が示してくれています。
鑑賞者が好きに感じてくれればいい、という突き放したコンセプトではなく、まずは物語にきちんと没頭できる物語空間は用意されています。
「人が近づくと音がなる」的なメディア・インスタレーションの無機質さはなく、どこか暖かさを感じます。


〜決して難しい技術ではないのに、納得する見せ方〜

ネタばらしはしませんが、決して難しい技術を使って見せている作品ではありませんでした。
MAX/MSPなどのツールを使ったことがある人は、技術的な疑問は解けるはず。同じようなインタラクティブ・インスタレーションは、ハッキリ言ってしまうとどこにでもあって、初歩的なものかもしれません。

ところが、それ以上に「サーカス」という独特な世界観を出して、老年の座長というキャラクターがその世界をさらに拡張する見せ方は、緻密で高いセンスを感じます。




棚橋洋子


マックス・シューマッハ




『6 feet deeper』
performance/Maren Strack




〜劇作家とメディア・アーティスト〜

他にもオモシロイ作品は沢山あるのですが、「ポスト・シアター」について少し説明しておくと、ドイツ人劇作家のマックス・シューマッハさんと日本人メディア・アーティストの棚橋洋子さんの二人を中心として、ベルリンとNYを拠点に活動しているユニット。

「ドラマトゥルク」という肩書きは、日本ではまだマイナーですが、マックスさんは「ドラマトゥルク」担当。つまり、コンセプトや物語などの構築を行う人。そこに、メディアアートとの擦り合わせを棚橋さんと進めていく作業です。


以下、ポストシアターのコンセプトからの抜粋。

『演劇においてのインタラクティブ・メディアについて考えよう。』をスローガンにポストシアターは演劇とインタラクティブメディア・アートという二つの全く異なる分野の境界線を越えたところでの作品作りに励んでいます。

その際に『インタラクティブ』という言葉をポストシアターは以下のように定義しています:

▼デジタル・ツールを用いた機能としてのインタラクティブ性
(展示品としての面白み、鑑賞者の作品との外的接触)
=インスタレーション等

▼対鑑賞者と作品との物語の共有としてのインタラクティブ性
(「感動」「想像力」「好奇心」等の 鑑賞者の作品との内的接触 )
=演劇空間

以上の2点をふまえてポストシアターは常にテクノロジーの使用がいかにストーリーとの関係のなかで正当化されているかということに注目しています。発達したテクノロジーは演劇という分野の可能性を無限に広げていきます。同時に、演劇がテクノロジーの奴隷となって、テクノロジーを見せる為だけのマルチメディアショーとなることも稀ではありません。テクノロジーをただの効果として使用するのではなく、『どのテクノロジーがどこに、どうして設置されているのか?』ということをストーリー設定に盛り込みながら、作品をつくっていくことで、より強化なテクノロジーと演劇のシナジーが生まれると信じています。
(抜粋ここまで)


〜毎月どこかでポストシアター〜

ポストシアターの今年の予定を聞いてみると、ほとんど毎月どこかの国でパフォーマンスやインスタレーションをしています。アジア、ヨーロッパ全域。
どれも自主公演ではなく、主催者がいる公演。作品がちゃんと売れている証拠です。
なかなか日本では難しいかもしれませんが、作品を売るということでカンパニーを運営していけると、ストレスも多少軽減するかもしれません。







〜「演出」された大きな作品〜

振付を覚えたダンサーも台詞を覚えた役者も、舞台に立っているだけでは、なんの展開もありません。そこには「演出」が必要です。
もちろんメディア・アートも同じで、テクノロジーの詰め込まれた機械がそこに置いてあっても、別になんのことはありません。そこに「演出」があってはじめて伝わるものがあります。
メディア・アートがPCを使うようになって、コンパクトでモバイル化していくことはいろいろな意味で効率的です。ところが、その傾向が舞台芸術においては、作品の縮小化に繋がり、「小さい作品」が多くなってきます。組織化、カンパニー化せずに、ソロとしての活動が多くなってきており、経済効率を考えると、もちろんその方が効果的で小回りも効きます。
ところが、即興的な作品やクラブイヴェント的なセッションが増え、ムーブメントとしての塊では歴史に残りますが、作品が歴史に残ることは、まずないでしょう。

ポストシアターの『ヘブンリー・ベントー』は、3名しか出演者はいません。40名しか同時に鑑賞できない舞台作品ですが、決して小さい作品ではありません。
小さい編成で、大きな作品が出来る、という良い事例です。

ベントー、とは、「弁当」のことです。
日本を代表する企業「SONY」の創立史を題材にした作品で、そういう意味では「歴史大作」です。
演劇とダンスと映像と食がミックスされた作品で、まるでSONYの会議室で箱弁当<幕の内>を前にしながら、走馬灯のようにSONYの創立に関する内幕を見学しているような作品。
日本の企業体、というのは、よくアメリカ映画などで「カメラを肩から斜めにかけて、名刺を片手に、ニコニコして迫ってくるスーツ姿のおじさんの集合体」というように描かれていますが、この作品は決してそうしたカリカチュアではありません。

おそらく、ドイツ人と日本人のコラボレーションであるがゆえに、日本を外国と見る視線と内部の視線とがうまくコンセプトと演出に溶け込んているんだと思います。
「弁当」という存在が、リアルですが幻想的な独特な世界観を醸し出します。

 

これだけの映像やテクノロジーを使っているにも関わらず、「技術を見せ付けられた!!」という印象は全くなくて、しかも何度も見たくなるような、テンポの良い作品でした。インパクトのある作品を継続的に創作できることに、関心してしまいます。

ポストシアターのように、『メディア・パフォーマンス』とは何か、という問いに対して「作品で提示する力」が必要です。
 
2005/02/12