Interview
Naoto iina


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飯名尚人 Interview
2006年総括
聞き手/酒井聡(Dance and Media Japan/Yamagata)
31 DEC 2006
2006年、僕は外部者としてDMJのいろいろなイヴェントに参加しました。
僕も2007年からはDance and Media Japan / Yamagataとして活動をしていくわけなんですが、今日は外部の視点からDMJプロデューサー飯名尚人氏にインタビューを行いたいと思います。(聞き手/酒井聡)
Sakai/さて、2006年DMJはどのような活動をされたんでしょうか?


Iina/今年はいろいろイヴェントをしてきました。立場的に「イヴェント打ってナンボ」みたいなのもあって、無理矢理いろいろやったんですけども。なので、あんまりブログとかWEBサイトとかに文章書いたりするのを控えてたんですけども、文章にしてしまうとなんかやったつもりになってしまう、というか、偉そうなことばっかり書いて机上の空論、というか。そういうのが嫌だったんで。でも今年の後半からは、レポートページとかを充実させてて、イベントの後記事とか書くようにしました。まあ、どの雑誌も取り上げてくれないだろうから、自分で書こーっと、と思って。


Sakai/
僕がレポートページやイベントの後記事を読んでいて感じたのは、実はこの記事はDMJからの情報提供ではなくて飯名尚人が自分に向けて書いてるのではないか、ということなんですね。イベントの企画段階で考えていたことと実際にやってみた後のずれの確認として、また、今年のイベントを媒体としてDMJがこれまで3年間やってきたこと全体に対しても同じように確認作業をしていたのではないかと感じました。


Iina/
そうですね、人に報告する、というよりは反省会というか。ひとり反省会。やるたびに悩むんですよ、いろいろ。自分の思惑とのズレ、というのは、企画者としてシミュレーションがちゃんと出来ていないから、普通の仕事だったら絶対怒られますよね。予想できてないのに、イヴェント打つわけだし。頭のどこかには「こうなるといいのになぁ」というのはあるけど、全体を仕向ける力量がまだないんですよね、僕に。だから失敗企画も多いですよ、表面化していないかもしれないけど。

Sakai/今年のイベント事が一通り終わった現在の活動は?


Iina/今はインタビューというのをどんどん進めています。来年はインタビューをすごくたくさんしようかと思ってて、それは、イヴェントするお金があんまりなくなってしまったということもあるけど、自分の勉強のため、というか。それと、こういうインタビューって、プロモーションとしてやることが多いですよね、普通。音楽だったら新譜が出たときとか、新作の演劇の公演があるとか。そういうときにプロモーションとしてインタビュー記事になって紹介されるのが普通なんだけども、僕はそうじゃなくて、今僕が話を聞きたい人とか、DMJにとって取り上げるべきトピックがあるとき、というのを条件にしてやろうと。実際、WEBサイトも情報サイトみたいになってきたけど、スポンサーがいるわけでもないし、逆に言いたいことが言える。雑誌とかTVとかラジオとか、全部宣伝なんですよね、モノを売るための。でもそういう機能を利用しないとお金に繋がらないわけで、広告の時代というか、DMJがいつまでたっても貧乏なのは、そういう背景ですね。
 
Sakai/僕はDMJがお金持ちになってもらっても全然構わないですよ。


Iina/えっ、そうなの?!

Sakai/冗談、冗談。でも、作品作りってどうしてもお金がかかる。だから、DMJが資金をたくさん持ってるのは悪くないかなと。広告としてのインタビューをたくさんしてお金を儲けろとかそういうことではないですよ。今、飯名さんが行われているインタビューというものは広告としてではなく現状把握ということですよね。飯名さんの興味が何に向いているのかということもあるんでしょうけど、業界全体の現状把握を行うためのインタビュー。


Iina/広告としてのインタビューって、本音は言わないですよね、きっと。宣伝だもん、商品の。怖いですよね、そうやって刷り込まれていくんですよ、メディアに。インターネットのポータルサイトとかも、本来目次としての機能だけでいいのに、ほとんどが広告ですよね。クリック音が、チャリ〜ン、ってお金がだれかの貯金箱に落ちるような音に聞こえるくらい、情報の商売が蔓延してて。文化庁のメディア芸術祭とかも、かなりビジネス寄りでしょ。NHKのデジスタとか。だから現状把握しにくいんですよ、自分でウロウロしないと。「その情報、ホントかなぁ〜」って思うことばっかりで。無理矢理盛り上げようとしてない?とか。不安ですよね、この先。


Sakai/2006年、最後の最後でDMJはパフォーマンス、ビデオダンス、テクノロジーアートの3項目においてベストを選出してますが、これを行うにあたって何か背景があるのでしょうか?
 

Iina/まず、DMJとしてどういうものを芸術とするのか、という意思表示をオープンにすべきかな、と。ちゃんと発言していこうと思いまして。もちろん、意思表示を曖昧にするほうがいろんな仕事が来るとは思うんですけどもね。敵を作らないというか。でも、それじゃDMJはいけないな、と。良いものを良いといって、悪いものも悪いとちゃんと言う。その理由も明確にする。そういうのが言説の重要なポイントなんじゃないかなって。批評する立場というのもDMJは持っていいと思ったんです。最近、キュレーションを頼まれることも多くなって、そうするとなんでそれをセレクトしたのか、っていう明確な見解が必要になります。単純に「この人入れとくと客が集まる」とかそういうんじゃなくて。芸術に触れると心が豊かになる、という風にいろいろな大人が仕向けているような気がしていて、まずそういう純粋に芸術を行為としてしていくことが難しい環境にありますね。支援金、助成金もらうための口実というか、そんな意味付けが多すぎて、単純に「この作品おもしろいから絶対紹介したい」「このアーティストは今の日本に必要だ」というような熱意だけではなかなか物事とかお金が動かない。子どものため、老人のため、地域社会への貢献、とか、芸術にそんなものあるわけないじゃん、と本心はそう思うんですよ。邪悪な発想ですけど。
 

Sakai/
邪悪というよりパンクな発想なのかもしれないですね。
 

Iina/
実際、もっと社会に対して、とか倫理観、常識と思っていることに対して、そういうものをひっくり返すようなものが必要なんだけども、それは実際「危険」なものですよね。人の生き方を変えてしまうわけですから。良くも悪くも。最近はそういうのがなくて、「安全」だし「優等生」なアートが多いんじゃないかと思う。作り手は、もっと自分が表現することで他のだれかが影響を受けてしまっているかもしれない、とか、大なり小なり何かしらの影響を世の中に与えている、ということを意識してクリエイションすべきなんじゃないかと。世に出ても痛くも痒くもない表現って、それは作り手のためだけでしかなくて、観る側は無視されてしまっている。過激なものを作れ、ということではないんですけども、コミュニケーション、コラボレーション、という風にみんなが口にしているキーワードとは裏腹に、そういうものがないように感じます。


Sakai/
それは僕も感じていて、当たり障りのないものが本当に多いですよね。 それは芸術だけに限らず日本という社会において全体的に。ところで、そういったアートの現状において、飯名さんがやりたいことなんてあるんですか?もしあるのなら、具体的に聞いたみたいなぁと思うんですが、いかがでしょう?


Iina/最近、家を燃やしたい、と思っていて、その次は人を燃やしたい。パフォーマンスとして、ですよ。映像だともう簡単に出来る時代だし、911ときの中継なんて、みんな「映画みたいだ」って思っちゃった。


Sakai/
あの映像を見た大多数の人がそう感じたのではないでしょうか?僕もその中の一人ですし、その後何度あの映像を見ても現実味がなくてその感覚に戸惑いました。


Iina/実際に事が起こっているのに「うわっ、映画みたい」と。本来、逆ですね、映画を観て「うわー、ホントみたいだ」と、それがヴァーチャルリアリティーだったんだけど、逆になってしまったから、なんだかメディアの読解が複雑になってる。家を燃やす、というのは、「家」という人の価値観に対する問いかけなんだけども、昔「岸辺のアルバム」というTVドラマがあって、山田太一のシナリオで、それは、岸辺に建つ一軒家の家族の物語で、まあ、不倫だとか、いろいろあるわけ。家族って何よ?家って何よ?というのがテーマになってくる。最後のシーンは、これは実際にあった事件で、多摩川だったかな、台風で川が氾濫して川辺に建つ家が建ったまま流されてしまう。そういう映像が実際のニュースで流れた。壊れて水の飲み込まれるんじゃなくて、そのまま「建ったまま」家が流されていく。それを岸辺で見るしかできない家族。そういう映像がニュースで流れた。「岸辺のアルバム」のタイトルかエンディングのシーンで、その本当のニュース映像が流れるわけです。ショックですよね、作り話と思ってドラマを見てたら、最後に本当のニュースのシーンが出てきて、しかも劇的なニュースが。「家」というモノの喪失感。建ったまま流れていくというね。これだけ時代が経っても「家」というモノへの価値観って変わっていなくて、人間にとって失ってはならないもの、なんですよね。で、その「家」が燃えていく、というパフォーマンス。


Sakai/
家を燃やすこと、家が流されていくこと。ビル・ヴィオラは人を燃やすこと、水に飲み込まれることを同時にしている作品がありますよね。あれはビデオアートであって、非常に美しくて僕は好きなんですが、あの作品には失うといった危機的感情がない。実は家をただ燃やすだけではダメで、自分の家や知人の家が燃えないと意味がないのではないかと思うんですよ。「岸辺のアルバム」も最後のシーンまでにいろいろなストーリーがあるわけで、流されていく家は僕らにとってただの家ではなくなっている。だからこその衝撃があって真の喪失感が生まれるのではないでしょうか?これがモノである家とヒトでは、喪失感だけでは語れない何かが隠されているように思うのですがどうでしょうか?


Iina/
パフォーマンスでやりたいのは、まずお客さんにはその燃やす家を待合室にして、珈琲飲んでもらったり、絵が飾ってあったり、とか、一瞬だけどその家で体験したことを燃やす事でフラッシュバックして欲しいんですね。自分が座った椅子とか、自分で空けたドアとか、見た鏡とか。ビル・ヴィオラが燃える映像で、人が燃える怖さとか儚さって感じないですよね。僕もあの作品はすごく好きだけど、でもなんか物足りない。
その裏に隠されているもの、というのは、タブー、についてですね。家を燃やす、ということへの。それと、人、ね。人が燃える、というタブー。インドの僧侶が何かの抗議のときに、ガソリン被って焼身自殺した。その映像を報道のビデオカメラマンが撮影してた。一部始終を。ところがそのときの世論というのは、カメラマンへの倫理を問うたわけです。「なぜ止めなかったのか?」ということで。ジャーナリストとして取るべき行動はどっちなのか、ということですね。焼身自殺を止めさせる映像と僧侶が燃えていく映像と、どっちが社会への問題提起になるのか、とか、同時に、人の命を守るべきだったんじゃないか、とか。倫理観が問われた。もしそれが車が燃える、だったら、そこまでの議論はないかも。ベトナム戦争のときも、僧侶が抗議で焼身自殺した。それは反戦のための抗議ではなくて、宗教上の問題で、アメリカの傀儡政権で南ベトナムがキリスト教優遇政策をとって仏教徒の弾圧をしたからですけども、その先にはやっぱりアメリカとか戦争とかいろんなものが重なりあってきて、人が焼身自殺してしまった。反戦運動って捉える人も多いかもしれないけど、もっと根が深い。南ベトナムの政府に向けての抗議ですから。人が人に対して考えることってのは複雑です。整理されていないけども、そんなことを考えてみている。社会に対して意見するときに、焼身自殺で抗議する、って、そうなると社会に対して芸術に出来ることって、すごく「か弱い」ような気がしますよね。
リアルな火って制御できないんですよね、人はまだ。制御できないものへの恐怖感と、もっとも高価で大切な資産「家」の喪失感。でも戦争も人が巻き起こすことだけど、どっかの段階で人が制御できなくなってしまう。そういうものへの問いかけ。で、それって危険なことですよ、と僕は思うんですけど、単純に火が危ないとか怪我するとか、そういうことではなくて、倫理観として。


Sakai/タブーですか。僕も芸術というものは何らかの作家からの問題提示だと思うんですね。問題提示をするわけだから、作る側も観る側もそれなりのリスクを背負う。ただ、僕がやっている様なモノ(プロダクトデザイン)としての作品を作っているアーティストにとって観る側のリスクというのは、あまり直接はわからないんですよ。観客と直に接することが少ないですから。そういった点では、ダンスや演劇といったパフォーミングアートを長らく観てきた飯名さんだからこそなんだろうと思います。


Iina/
僕は直接作品を作る側には立たないから、そういうリスクを背負ってくれるアーティストと一緒に何か作りたいな、と思うんだけど、なかなか今はみんなそこまでリスク背負いたがらないですよね。やってる行為が趣味っぽい、というか。でも、DMJとしては今までも結構お金つぎ込んでるわけだから、趣味に終わらせたくない。むしろ僕が「えー、そこまでやっちゃうのー」っていうようなアイディアをアーティスト側から提案してもらいたい。「またこれかー」っていうのばっかりでちょっと飽きてきちゃった。


Sakai/正直な気持ちとして、自分がそういったリスク背負うのって怖いですよ。アートって正否とかで判断されるものではないですし、自分の意志、問題定義というのが正しいのか不安になるし、その反応も怖い。まぁ、それはまだまだ僕が若いということもあると思うんですが。だから、人当たりの良いものに落ち着いてしまう。


Iina/人当たりのいいアートって、なんか、大量生産用に作られたグッズみたいな、感じがします。観光土産のキーホルダーみたいな。オシャレでキレイなだけで、思い出として持っておく、という程度。「芸術を通じて地域へ貢献する」とか「幅広い層に芸術を見てもらうための活動」とか、そういう文言への懐疑心がどっかにある。もちろん、全否定はしないです。だって、歌を歌うことで心が癒されたり、実際そういうことはある。多分、社会へ貢献する芸術、というのは、そういうものを指すんでしょうね。「癒し」としての芸術。でも、僕はそれだけじゃないということを主張したいなぁ、と。あえて。


Sakai/観光土産のキーホルダーっていう例えはすごいなぁ。あれがオシャレでキレイかどうかは別として、当たり障りはないですよね。観光土産のキーホルダーでふと思ったのですが、あれは別にその地域で作っているわけではないですよね。全く別の場所でおそらく他の観光地のものと一緒に作られている。


Iina/そうだよね、海外に日本のお土産を持っていこうと思ったら、made in chinaって書いてあったり。


Sakai/だから地域と関係があるのかと考えると疑わしい。表面上のことだけだと思うんですよ。飯名さんの考える地域というのはどういったことなんでしょう?


Iina/地域社会って何か、ということなんですけども、東京だと僕(←川崎生まれ、川越在住)も含めて部外者が多いわけで、そうなると、東京で僕が地域のため、とか言っても説得力ないわけです。事務所は中野だけど、それも中野じゃなきゃいやだ、ここでアートをしたいんだ、という理由ではなくて、もっと経済的な理由だったり、他の理由だったりする。でも最近多いのは、その町出身のアーティストへの行政の支援。これも逆に鎖国してるような気がするなぁ。観光客増やす場合、その観光客の多くって外部からわざわざ来るわけだし、その町の施設をお金払って借りた場合って、その段階で町に金銭的に貢献している。だから、その町出身のアーティストの支援ってのは、ひとつのトリガーでしかない。

Sakai/僕も普段、山形ですからね。しかも愛知生まれ。今は僕の様なアーティストって多いと思うんですよ。今の時代、出身地というものは大して重要ではないですよね。単純にその町出身のアーティストに支援を行うことは行政の広報でしかないようにさえ思います。


Iina/今はノートブックに無線LANで、どこにいても電子メール使って他の土地とコミュニケーションが取れて、24時間営業のマクドナルドで一人でPCやってても、オフィスで仕事してるみたいに作業は進むわけだし。そうなると拠点事業への支援とかも、逆に「縛り」が生まれる。劇場とか、そういうハードへの支援ですね。
ソフトで流動的なもので勝負していこうと思うと、理解を得るのが難しくなります。これだけインターネットが普及して、コミュニケーションツールとして普通に使ってる現状で、物理的な場所、というものへの考え方も変わってきていいと思います。大学だと以前は「遠隔授業」というものを導入したがってた。今ではi-podで講義のビデオを配信する、とかそういうサービスまでやったりしてるケースもありますけども、つい数年前までは、なかなか難しい、ということになってて、その理由は、出席率のカウント、とか、そういうことなんですね。大学であれば、聞いてるか聞いてないかは別として、出席していれば評価につながったりして、その縛りが遠隔授業導入を止めてた。保守派の意見は、大学というのは、大学に来て、教壇に立つ先生とコミュニケーションをして学ぶべきなんだ、というね。革新派は、大学における教師の役割は研究なんだ、と。だから、授業という負担をもっと減らして研究に時間を使うべきだから、もっと効率のいい教材を作るべきだ、と。遠隔授業やPCを使った講義の導入で教師がもっと楽にならべきなんだ、と。まあ、どっちの言い分も分かりますよね。つまり「アナログVSデジタル」という戦いになるわけです。でも意外とその問題って簡単で、必要に応じて両方取り入れる努力と開発をする、ということですよね。全部が遠隔授業になるわけじゃないし。実際海外の大学と日本の大学をリアルタイムにつないで、お互いの研究発表したりとか、それは有意義な体験です。物理的な場所、ということももっと考えていく必要がある。場への出入りを自由にすることは必要になってきます。その自由度がどこまで許されるだろうか、というシミュレーションも必要ですね。ただ自由度を上げればいいって話でもないし。


Sakai/バランス感覚なんでしょうね、大切なのは。どうもこういったことは極端な意見が多い。


Iina/YesかNoか、という判断を迫ると、答えが出ない問題だよね。YesでもNoでもない答え、というか、YesとNoが同時にある答えとか、そういう思考回路で物事が考えられるように認識を鍛えないといけない。
地域としての場、というのは、すごく外部と内部の境界線がハッキリしてきますね。街づくり、とかの議論でもそういう境界線はハッキリ見えてくる。東京の研究チームが、別の土地の商店街の街づくりを提案する、とか、そういうときに、安易なこと言ったりしちゃうわけですよね、東京人が。例えば、何かイベントをしましょう、とかね。映画祭をやりましょう、とか。ところが商店街は、そうはいうけど地元が結局働くわけじゃん、と。映画祭やって、商店街の売り上げ伸びるならやるけど、とかね。そりゃそうですよね、死活問題ですから。商店街にとっては。東京人は、「わー、こんな古い商店街、映画のセットみたいー」的な気分で企画進めるけど、商店街の人たちにとっては、それだけじゃ仕事が増えるだけだし。一方で地元商店街も、何をどうしたいのか、となると、すごく漠然としてしまう。もっと儲けたい、ということなわけですけども。そうなると、観光客が増えれば、商店街の売り上げは増すのか、と。全体を見れば増すかもしれないけど、地元の洋品店は儲かるのか、とか。観光客は買わないでしょうし。そこに映画祭、とか演劇祭とかダンスとか、いろんなイベントを入れ込んでも、解決しないんですよ。それだけでは。ダンスなんかだと、コンテンポラリーダンスみたいな難解なアートを持ち込んでいくと、我々企画者はどうしたいのか、という、そういう明確なヴィジョンが必要になってくる。単に、芸術的側面だけではだめで、都市計画にまで踏み込むことになる。そうなると責任が生じます。地元の人たちへの。僕個人の感覚では、僕はそういう町にいる僕のような人、というか、安全なアートへの嫌悪感を持った世代へ向けてのイベントしかできない。でも、そういう世代も「地元の人」なんですね。そう考えると、単に「地域社会への貢献」ということでは意味がわからなくて、もっと具体的なカテゴライズが必要になります。このイベントはこういう人に向けて行うものです、という。でも、もちろん、そうじゃない人が観にきてもサービスマインドを忘れてはいけない。そうじゃない人が、そういうものへ関心を示して、また別のことが生まれる可能性もあるわけなんで。

拠点、ということを考えるとき、その場所でなければばらない、と同時に、そこでなくても別にいい、ということも事実としてある。技術的側面の強いデジタルアートの場合、モバイル化は重要な課題だし、なんでモバイル化されていくのか、というと、移動が楽、どこででも出来る、からですよね。もちろん技術的側面の話ですけども。内容に関することでいれば、「サイトスペシフィック」というのが広まってきて、その場所でしかできないことを作品に取り入れたりもしますよね。それは作家の志向ですから、いいとも悪いとも思いませんけども、だからといって「サイトスペシフィック」な作品ばっかりでもつまらないとおもうんですよ。 ワークショップ、とか、サイトスペシフィック、とかそういうのって、受け入れられやすいから、企画者はすぐそういうことを書きたがるけど、それについても少し懐疑心を持つべきですね。カフェ、とかもそうですよね。アートカフェとか。実際、どの日本のアートフェスティバルも、フェスティバルカフェがないですよね。参加者もスタッフも観客も作品を見るしかすることがない。会場をうろうろするしかなくて、ミーティングポイントがない。本来カフェみたいな場で、アーティストに声をかけてみたり、友達と偶然あったり、プロデューサーに売り込んでみたり、とかいろんなアクションが生まれるとおもうんだけど。いちいちアポとって、事務所でかしこまって売り込み、って出会いがないじゃないですか。でもじゃあ、紙コップとコーヒーポット置いてあればカフェかというとそうじゃない。やっぱりフェスティバルカフェだろうと、アートカフェだろうと、ちゃんとカフェとしてのサービスを受けたいし、それを楽しみたいところもあります。雰囲気とか。いいカフェがあって、人が集まってきて、フェスティバルに来る人も、そうじゃないお客さんもいる、というようなオープンな。そういうカフェで、アーティストと出会って、立ち話して、とか、そういう自然体なコミュニケーションが生まれるともっといいなぁ、と。人を紹介しあう、とかね。アートマネージメントとかドラマトゥルグとか、いろんな新しい概念が欧米から輸入されてくるけど、どれもなんとなく使ってるだけで、機能してこないんですね。カフェもそういうものですよね。日本風にもっとアレンジする必要もあるだろうし、もちろん本来のオリジナルの機能を考慮して尊重しないといけないわけだし、いろいろ導入が難しいですけども。


Sakai/
カフェということではないんですが、以前僕が参加したDesigners Weekなどといったデザインイベントでは、常時デザイナーが自分の作品の前で待機しているんですね。そこでデザインしたものを目の前にして、時には手に取ってもらいながらデザイナー本人が直接説明をし、売り込みをするわけです。まだまだ日本には馴染みのない文化なのかもしれないですけど、毎年イタリアで行われているミラノサローネという国際デザイン見本市などでは当たり前のように行われているデザイナーとバイヤー、もしくはプレス、一般の客とのコミュニケーションの方法なんですね。こういった直接的なコミュニケーションこそIT化が進んだ今こそ有効だと思うんです。メールなどでやり取りするより遥かに情報量が多い。それぞれの文化でそれぞれのコミュニケーションの取り方というのがあるんでしょうけど、欧米式を日本風にアレンジするというより各々のコミュニケーションの仕方を直接ぶつけることが重要なのではないでしょうか。そうすることでそれぞれのバックグラウンドなんかも理解される。もちろんそんな単純なものではないんだけれど、斜に構えてしまうくらいならそれくらいシンプルな方が良いと僕は思うんです。


Iina/単純でいいんですよね。最近は複雑すぎますよ、何でも。それって、いろんな仕組みが入り込みすぎて、全部を機能させようと思うと、複雑でイビツになってしまう。モノがあって、作った人がいて、それを欲しい人がいて、ってことをまず成立させないと。その間に入るものが多くなってしまうと、やり取りが複雑になりすぎる。マネージメントの機能って、作った人と買う人の間で調整する役目だったりするけど、むしろ邪魔なときもある。全部に必要ってわけではない。もちろん必要な時もあるし、間に立つ人がいたからスムーズにコトが運ぶことも多い。かといって、邪魔になることもしばしばある。アートマネージメントとかも、日本のビジネス上の体質に合わせていかないと、いくら「欧米では当たり前の肩書きだ」とか言われても、欧米と日本じゃ違いますからねぇ。

日本の税制とかもっと変わらないとNPOの仕組みだって機能するのか微妙ですよね。欧米の芸術に対する社会の認識と日本とでは違います。どっちがいいか悪いか、ということではなくて、「違う」ということなんですよね。日本の会社法で、一体なにが非営利なのかよくわからないし。会社法も変わったわけですから、だったらLLC法人とか、もっと社会に経済的に参画していくことも必要かもしれない。LLCは条件として「営利目的」という条件がついてくる。NPOは「非営利目的」でも、どっちにしても人が一人生きていくための最低限の資金は必要なわけで、非営利だからといって勝手にお金が集まるわけでもない。まあ、助成金は取りやすいということくらいじゃないですかね。それと、なんとなくクリーンなイメージ。どうかと思いますけども。 そもそもアーティスト、という仕事も日本だと社会的にはフリーターに近いと思うんですよ。全国でフリーター何人!とかってニュースでよくやってるけど、その中にアーティストもかなり多い。就職しない若者が増えている、とか、すごくアナウンサーが神妙な顔つきで言うけども。なんとなく「ちがうんだろうなぁ」と。


Sakai/実際に僕の大学でも芸術系、洋画や日本画、彫刻といったコースの学生は就職率が低いんです。おそらく芸術活動を継続したい人が多いからだと思うんですが、大学としては就職率が低いのは外面が良くない。 だから、非常に熱心に就職支援を行っているんですが、何かその行為にむなしさを感じるんですよ。就職支援を行うくらいなら、どうアーティストとして生き残るか、自分をいかに売り込むかの術を教えてくれる方がよっぽどか良い。もちろんそんなことは自分で学ぶべきだという意見もあると思うんですが、それをせずに就職を斡旋してしまう、しかも全く関係のない職業を斡旋してしまうことの方が問題は多いと思うんです。

Iina/大学もビジネスですよね。少子化で、客の奪い合いになってる。変な学科も増えてきているし。でも、ガチンコで芸術の勉強したらさ、協調性なんてなくなってしまうよね。作品作りって自分と徹底的に向き合うことが重要なんだから、人とモノ作るときの効率、とかばっかり教えられても、自分と向き合ってないんだから他人と会話できないですよ。
今の日本はバランスが悪いですよ。ゲームやアニメは子どもによくない、と。ところが日本の産業でゲームとアニメが落ち込むとマズイですよね、きっと。やりすぎちゃうんでしょうね、何でも。これが儲かる、というマニュアルが出来ると、みんながそれをやる。株とか投資もそうですよね。みんながやり始める。そういう土壌でどういう芸術が生まれてくるか、といえば、まあ、病んだものがもっと多くていいはずなんだけど、さっきも言ったけど優等生なものが多い。それと同時に内向的ですね。社会という大きな構造に対する問題意識を芸術を通じて主張することは合法です。暴力とかは非合法です。何を言ってもいいんだから、言えばいいんですよ、芸術で。アートとビジネスが密着して、いろんな解釈が生まれたと思いますが、ビジネス目的のアートは、観光地のキーホルダーでとめておいて欲しいものです。


Sakai/ありがとうございました。



[Profile]
飯名尚人

Dance and Media Japanキュレーター、プロデューサー。大学卒業後、映像制作会社に入社。退社後、上智大学にて教材開発プロジェクトに関わる。2002年よりDance and Media Japanを立ち上げ、多分野で活動中。
聞き手 / 酒井聡

東北芸術工科大学にてプロダクト・デザインを学び、在学中からメディアアートに深く関わる。建築ユニット・Responsive Environment、第3回ダンスフォーラム、TOKYO DESIGNERS WEEK 2003 [CONTAINER EXHIBITION] 等に参加。また人材育成のため講師として活動。
2006年よりDance and Media Japan/山形として参加。