堀内 恵(The Side主宰)
 
ダンスを映画にすること
 
ダンスを鑑賞する方法として、劇場で3Dのダンサーを見るのではなく、映画という方法でカメラを通して平面になったダンサーを鑑賞することはどういうことだろうか?
 
ダンスをするわたしは、カメラでダンスを撮ることはアーカイブの一つの手段としてしか考えておらず、ダンサーの体が平面になることをネガティブにしか考えていませんでした。2020年、コロナ禍でダンス作品をオンライン上で多く見るようになり、わたしもとあるワークショップ内で映像作品を制作し、その時に飯名尚人さんに出会いました。
そこで、作品全体をアーカイブとして単に記録するのではなく、映像だから成立する作品、映像だからこそできるあらゆる可能性に気づき面白さを感じました。劇場だと作り出されてしまう舞台と客席の距離がなくなり、カメラで切りとり繋ぎ合わせることで生まれるナラティブ。今回「映画的視点での身体の切り取り」をテーマにセレクトをお願いしたのもそういった面白さを感じたからです。やはり時間、場所を超えられることも魅力で、当たり前といえばそうですが、国際ダンス映画祭でセレクトされた作品は年代、国もさまざまで映り込んだ背景、画質やフィルムの種類、音から国の特徴や時代背景をも感じられる。ダンスが映像になることでダンス以外の情報も加わる、それは凄いことだと改めて思わせられました。
 
今回の京都ダンス映画週間の作品から実験的な要素が見られます。カメラは常に実験の連続でできているといわれるように、ダンスもカメラの発明と共にさまざまな表現の可能性が生まれ、それに触発されたかのように作家やダンサーの想像力が膨らんでいるように見えました。
今を別の物に定着させ、さらに壁に投影する。そうすることで過去が現在の空間に映される。ダンスが映像になることで、鑑賞方法もある意味実験的といえます。今回会場となっているThe sideはLumen galleryから引き継いだ場所です。Lumen galleryは映像専門ギャラリーとしてオープンし、8mmフィルムや実験フィルムの作品を多く上映していました。京都ダンス映画週間で再び上映空間となることは空間を引き継いだわたしにとって、凄く嬉しいことです。
ダンスを映画にすること、それは表現の可能性と時間、空間を超えた作家、ダンサー、観客との出会いをさせてくれることなのかなと思っています。そんな空間になる会場でお会いできるのを楽しみにしております。
 
 

飯名尚人(国際ダンス映画祭プロデューサー)
 
ダンスを繰り返し観ること
 
2020年からCOVID-19の影響で、私が主宰している国際ダンス映画祭はオンライン開催を実施してきました。オンライン開催のメリットも多く、そのためのノウハウの蓄積も出来ましたが、そろそろ実際の会場で上映会を、とも思っていた時、The Side主宰の堀内恵さんから「京都で国際ダンス映画祭をやりたい」というオファーをいただいて、さらに「映画的視点での身体の切り取り、というテーマで作品をセレクトしてほしい」という宿題ももらいました。こうして京都ダンス映画週間が誕生することになりました。堀内さんが主宰するThe Sideは映像を扱えるギャラリーで、堀内さんはダンサーであり映像作家です。彼女が作る映像とダンスの作品にも関心があったので、今回京都ダンス映画週間でのコラボレーションはとても楽しみです。

私はプロデュースのポリシーとして「良い作品は何度でも繰り返し紹介する」というのがあります。常に新作を買い求めるのではなく、発掘作業をしながら、作品が繰り返し目に触れるように心がけています。それを10年繰り返していると観る世代も変わってきて、その時代の価値観によって新しい解釈で作品を評価することができます。ダニエル・シュミット監督『書かれた顔』(1995年・配給ユーロスペース)はDVD化されていないこともあり、若い世代が目にすることが少ない作品です。『O氏の曼陀羅 遊行夢華』(1971年・協力NPO法人ダンスアーカイヴ構想)も。京都を拠点に活動した舞踏グループ白虎社は、グループ解散後メディアへの露出も減りましたが、今見ても古くないどころか、白虎社のセンスとエネルギーが今の時代へ継承されていかないことへの不満というのが湧き上がり、私の映画祭で繰り返し紹介していこうと思いました。映像は繰り返し紹介することがしやすいメディアです。一方、ダンスはそのまま繰り返すことの困難さがあります。ダンスを映画として紹介することで、その当時のベストな身体を観ることができます(映像の中で、という制限はありますが)。

セレクションAとセレクションBは、これまで「国際ダンス映画祭」で上映、配信された作品から選んだ秀作たちです。どの作品も映像として身体を楽しめ、その国の文化、社会性、価値観が匂い立つ内容です。

どうぞご来場ください。
 
 

黒田瑞仁(国際ダンス映画祭 渉外・マネージメント)
 
街中のダンス映画

 
海外のダンス映画作家たちと上映交渉をしていると、ここ数年のコロナ禍に合わせたオンライン上映であることを理由に上映を断られることがある。自分の作品が世に出る機会があるならと喜んで交渉に応じてくれる作家も多いが、自分の作品はオンラインでは上映したくないのだと、はっきり伝えてくる作家もいる。それはなぜなのか。二つの理由を推察してみた。 
 
一つには、オンライン視聴では作品が正当に受け取られないのではないかという懸念がありそうだ。なるべく大画面で、高音質で映像を受け取って欲しいが、鑑賞者全員がそんな環境を用意できるとは思えない。という考えもきっとあるだろうし、違法ダウンロードやコピーへの心配は無論として、なにより、本当に映画を集中して見てもらえるのだろうか。という心配だってあるだろう。自分の作品が一時停止されたり、ながら見されたり、あるいはスクロールバーをいじって「なんとなくわかった」ことにされてしまう悲しさ。それに耐えられない作家たちがいるのだろうし、その気持ちは確かに理解できる。 
 
もう一つの理由は、本人たちもはっきりと意識していないかもしれないが、ダンス映画というジャンルと「街」に隠れた強い結びつきがあるからではないかと、私は拙い推理をした。閉鎖された劇場空間で行われるダンスの舞台公演とは違い、多くのダンス映画には「街」をはじめ、自然や日常、社会といった現実の風景が映り込む。これらは決して仕方なく映り込んでしまうわけではなく、むしろこの風景とダンスの出会いこそがダンス映画を独自の映像ジャンルたらしめる。ダンス映画に登場する踊りの動作や身体は、現実の風景が映り込んでしまっている以上は人々が自分たちの街で過ごす中で日々行っている動作や持っている身体と無関係ではない。だとすると、土地の景色や風俗が、作中に登場する踊りの動作や身体性と混ざり合ったものが、あるいはダンス映画なのかもしれない。 
 
では、そのダンス映画をどこで鑑賞するかも、実はダンス映画の鑑賞体験として重要なのではないか。どこか異国の「街」の風景が映り込んだ映像を、一歩外に出れば自国の「街」が広がる会場で鑑賞する。スクリーンの中だけでなくスクリーンの外でも、踊りと踊り手の身体が異国の「街」を介して、自分がいまいる「街」や自分の身体と混ざっていくのではないか。オンライン鑑賞ではこの「街」との関係も、希薄になる場合が多いだろう。彼らはあるいは、この鑑賞体験を無意識に守ったのではないだろうか? 確かに、これは深読みのしすぎだろうと自分でも思う。しかしやはり、ダンス映画を街中の上映会場で見ることには思いがけぬ意味が潜むのだろうなと、世界の隅々にいる作家たちとメールのやりとりをしていると思ってしまう。

 
国際ダンス映画祭はThe sideさんの企画として、3年ぶりにリアルな街中の会場で上映が行われる。しかも、朝夕2回の上映を2週間。京都の街中と日常の時間の中で、ダンス映画がどのような鑑賞体験をもたらすのか、とても楽しみです。