Which came first
19'17"
Artist: Ami Kitsuya
Curator: Sawa Kuwabara
みてほしい
夜、許される時間を暗い部屋の中で。
作品解説
この作品では⼥の⼈が、夜中にパジャマではだしのまま、橋の上を歩く。⽊津⾕さんは、出演している⼥の⼈に⽬的のないように歩いてみてという⾔葉をかけ、撮影したという。それは、夜。夢の中のような空間を、彼⼥が現実で夢遊している。
作品の⼤部分を占めている橋の上を歩く⼥の⼈の映像は、何度も繰り返されるが、その繰り返しの時間は、私たちにこの作品に⼊り込む、いわゆる陶酔するための時間としてあり、感覚的に飲み込まれていく。しかし、それはただ同じことが繰り返されるという、輪をえがいているわけではない。⾛っている映像や、⽔溜まりに落ちる映像によって、ぐるぐると飲まれる感覚に開放や安⼼という変化をもたらと同時に、後半にかけて繰り返される、「考えるから忘れるのか、忘れるから考えるのか」という⾔葉たちの重なりが、問いとして投げかけられる。それらは、彼⼥も⾔葉にしているように「螺旋」ということに触れていく感覚をもつ。
繰り返しているどっちが先かわからないことをとりあえず並べ、⾳やリズムを意識して重ねたというその⾔葉たちは、⾃然と声に出したくなる。それは、私たちの中ですでに内在している⾔葉だからなのかもしれない。聞こえてくる⾔葉を⾃分⾃⾝の中に⼊り込ませ、外に放出させる。作品中で完結しない⾝体性は、この映像の感覚的な部分の表紙だ。
繰り返される映像と⾔葉たちは、肌で感じる繰り返しから、脳で感じる繰り返しに移⾏していく感覚があるが、知らぬ間に、また肌で感じる繰り返しという輪の中に戻っていく。螺旋の中にいたことに気づく瞬間を、私たちの中に。
Commentary
Barefoot in her pajamas, a woman walks over a bridge in the middle of the night. The director Kitsuya, told the performer to walk with no purpose in mind. Nighttime. She sleepwalks her dream-like space located in reality.
The image of this woman walking on the bridge, takes up a large proportion of the film repeated again and again, for the audience to enter the fiction spellbind, absorbed through our senses. This is not a mere repetition nor just an attempt to create a loop. The image of running, or falling into water puddles bring changes in the sensation of being swallowed in liberation or relief, while at the same time, the repeated phrase "do you think because you forget, or forget because you think?" in the latter half of the film questions us. These questions give the sense of touching a "spiral", as Kitsuya uses the word herself.
The words that are repeated and arranged with care to their sound and rhythm, are unknown which really comes first, makes one want them to read out aloud. Maybe that is because we already have the same feeling buried inside us. We inhale the words we hear and then exhale. The physicality which does not conclude within the piece itself works as the facade of the sensational part of the piece.
The repeated images and vocabulary alters the sensation from repetition in the skin to repetition in the brain, but before you know it, you will return to the circling sensation of repetition within the skin. It gives the moment we realize that we are in a spiral.
作者から・・・
私たちは、毎⽇たくさんのことを繰り返して⽣きています。起きたり、寝たり、息を吸ったり吐いたり…。それから、私たちは考えたり、忘れたりします。これらのことは円のような平⾯的で塞がっているものではありません。同じようだけれども、決して同じではない、螺旋状のどこまでも繰り返すものです。物事を繰り返しているとどこが始まりだったか、どこが終わりなのか、わからなくなります。考え事をするような夢を⾒るような、そんな感覚でこの繰り返す時間を⾒てもらえたらなと思います。
作家プロフィール
⽊津⾕あみ
東京造形⼤学 映画・映像専攻在学。
映像作品以外にも、絵画や彫刻の制作もしている。いつも、⼿を動かすことと、おしゃべりの⾔葉のことを考えている。
過去作品
「染みる葡萄」
2016 年/油彩 F10 号
「ブラッドムーン」
2018 年/油彩 F15 号
「10 分だけ・・・」
2018 年/FRP、との粉
「き つ や あ み」
2018 年/テラコッタ、との粉・⽔彩絵の具
「ウロボロスのなんだっけ」
2019 年/絵画(油彩 F20 号)、映像
キュレーター プロフィール
桑原咲羽
東京造形大学映画・映像専攻在学
「bubu」を山崎未樹(「身体を巡る映画祭」にて作品を出品中)とともに活動開始。”なくてもいいけどあったら生活が豊かになる”をモットーに、zineを届ける活動をしている。
https://bubu7919.theshop.jp/
「CS-lab radio レイクエラー」2020年7月パーソナリティー
作品
「くれまぎれ」(映像作品・2018)/「冥々」(映像作品・2018)/「しかい」(映像作品・2019)/「そっちもこっちも」(zine/詩集 2019)/「jaw not warking」(zine・2020)
作品ページ
https://hadashi773.tumblr.com/
⽊津⾕あみ(監督) × 桑原咲羽(キュレーター) 対談
螺旋状の繰り返しているもの、もう⼀つは⾔葉
この作品は、作者の⽊津⾕さんがが⼤学⼀年⽣の時に制作したものだ。「にわとり」の制作の前に「ウロボロスのなんだっけ」という、絵画作品に映像を投影する展⽰作品を作っていた彼⼥は、考え事をしているときに、ずっと同じことを考えるそれは輪のようであるという、その繰り返すということをテーマに作品を制作していた。しかし、その後「にわとり」を制作する際には、繰り返しているだけではないということを思ったという。この機会を期に、同じ専攻の同期である作者の⽊津⾕あみさんと対談した。上記の話のもと、作品をより深く⾒ていくための⾔葉をたくさん聞くことができた。
桑原「繰り返しているだけじゃない」
⽊津⾕「うん。考え事をしているときがそうだと思っていて。今もそうだけど、常に同じようなことを考えてる。気がつくと同じようなことばかり考えていて。だけど、ある時いやそうじゃないって、輪から抜ける時があって」
桑原「うん」
⽊津⾕「でもその抜けた先に何があるってわけ時でもなく、また知らないうちに輪の中に戻 ってしまった。それで、繰り返しているんだけど、繰り返しじゃないから、これは螺旋状みたいな感じ、イメージとしては。上から⾒たら同じところを辿っているように⾒えるんだけど、横から⾒たらちょっと位置が変わっているぞみたいな。そうゆう感じで作っていた」
桑原「うん、なるほどね」
⽊津⾕「作った後に、こうだったんじゃないと思ったのは、なんだろう、ぼーっと考えている瞬間、何も考えていない瞬間とか、寝そうになっている瞬間とか、ハッて現実に戻るみたいな瞬間ってあるじゃん。そうゆうこともあるのかなって」
桑原「現実に戻る瞬間もあるね。なるほど。⾝体を意識したりはした?」
⽊津⾕「撮影の時とか?」
桑原「うん」
⽊津⾕「撮影の時は、⽬的がない⾵に歩いて⾏ってみてとか、こうやってみてああやってみてとか、⽔たまり落ちて⾒てとか、指⽰はしているけど。ふらふらっと無意識的に歩いているみたいな。夢遊病みたいな、徘徊しているみたいな、意識が半分ないなみたいな感じの動きにしてみてっていったと思う」
彼⼥の作品には、現実世界で写ってしまうものとは別に、彼⼥が書き⾜した部分がある。
桑原「絵が挟まれるとか、⽩いので書いたところは、編集の時に考えた?」
⽊津⾕「それは、編集の時」
桑原「うんうん」
⽊津⾕「⽩い線を⼊れたのは、わからなくて。たぶんこれ良くないと思うんだけど、あの、なんだろう、メモ帳とかに書いたときにさ、違うわってなってメモを消すみたいな」
桑原「なるほどね。じゃあ、⾛っているところを⾒て、ここを消したいってなったんだ」
⽊津⾕「そうだと思う。あの⾛っている映像。1 回⽬に出てくる時は、⽩い線でぐちゃぐち ゃって消してあるけど、2 回⽬に出てくる時は何もついてなくて」
桑原「うんうん」
⽊津⾕「それは多分、過去を反芻するっていうことで。1 度⽬の時は、消そう消そうっていう感じだけど、もう1回思い出したときは、しっかり⾒ようみたいな」
桑原「1回⽬と2回⽬で⾒え⽅が変わるじゃないけど、思い出した時の対処法が変わるみたいな感じかなぁ」
⽊津⾕「あぁ、そうかもしれない…」
⽊津⾕さんは、過去に⾃分⾃⾝が考えてたことを、これ違うと思ったら塗りつぶしてけしち ゃうみたいなことが結構多く、クロッキー帳とかに書いたものを後から⾒返して消したりするという。
桑原「もう、⽂字でも絵でもなんでもって感じ?」
⽊津⾕「そう、なんか残しておけばいいのに、なんでこれを考えて書いたの、私。と思って消しちゃうんだよね、⽩い線が⼊っていたところはそうゆう意味があるんだと思う」
桑原「なるほどね。絵が書き⾜されるけど、映像の⾊も変わるよね。重なるみたいになる。あれで結構、思考の中に⼊っていく感じがするんだけど、それに連なって「もう何も考えてない」って、⾔葉がでてくる。終わりにかけて。あれにすごく安⼼してしまうんだけど、その⾔葉はどうゆう流れでうまれたの?元々、『ウロボロスのなんだっけ』の時は、「もう何も考えてない」とかはなかったよね?」
⽊津⾕「そこはなかったかもしれない。ちょっと増えたのかな。多分、繰り返しているっていうのをただ⾏っているだけだった。ウロボロスの時は」
桑原「うん。『にわとり』の⾔葉ってどうやって決めたの?」
⽊津⾕「えっとね、⾃分の中で繰り返してるどっちが先かわからないことをとりあえず並べて、読みながら、その⾔葉に出しやすいように変えて。声に出しやすさが⼤事だと思っていて。⾔葉を使う時に」
桑原「うん、⾳として」
⽊津⾕「そう、意味とかも⼤事なんだけど、なんかさ⾔葉聞いてる時にさ意味が⼊ってこない時があるじゃん」
桑原「うん、ある」
⽊津⾕「だけど、リズムとか声量とか重なっている声の量とかに圧倒されるみたいな、そんなような、意味としての⾔葉じゃなくて、⾳としての⾔葉みたいな。多分そうゆうことをやりたかったんだと思うの。それで、んー…繰り返しっていうのが、その⾔葉のリズムでもできるようになるべくいっぱい、起きるのが先か、寝るのが先かみたいなものをいっぱい増やして、吸ってから吐くのか吐いてからすのか、起きてから寝るのか寝てから起きるのかって」
桑原「ぐるぐる」
⽊津⾕「うん、ぐるぐるしてる⾵にしたと思う」
桑原「たしかに、リズム⼤切だよね、意味も⼤事だけど」
⽊津⾕「⾔葉って難しくて。意味を理解させるための⾔葉だったら⼩説でいいと思っていて。なんか⽂字情報でいい⾔葉は、⾳にしなくて良くないと思ってしまう。だから⾔葉を使うのであれば、リズムかなって」
桑原「うん。⾳として映像で使うのであれば、リズム。そうだよね私もそう思う」
桑原「作品はずっと夜だけど、それは最初から夜にしようって感じだった?」
⽊津⾕「うん、そうだね、夜さまよっているっていうのは、やっぱり夢、夢遊病っていう、パジャマを着てるっていうのも、夢の中にいるんじゃないかみたいなところがある。あとは、たいてい何か考え事するのって夜。夜のなんかよくわからない街を、街っていうか道を歩いているみたいな」
桑原「なるほどね。あの構成の話も聞きたいんだけど、最初映像繰り返して、時々⾛っている映像があって、繰り返すのは⼀緒だけど、⾔葉が⼊ってきて、最後には主観(彼⼥が⾒ている景⾊)の映像になるじゃん。その構成は撮影の前に決めていたの?」
⽊津⾕「それは全然、きめていなくて、とりあえず、夜だ、⾏くぞ!撮るぞ!みたいな感じで外に出て、撮ったんだよね」
桑原「そうなんだ」
⽊津⾕「何時間くらいだろう、⼣⽅から初めて0時すぎるくらいまでやっていて実際、使った映像って数個しかないじゃん、同じ映像を繰り返しているだけだけど、あれの何倍も撮っているの、別の場所で」
桑原「あ、いろんな場所で撮ったんだ」
⽊津⾕「そう。その中で街灯の明るいところに向かっていって、そこらへんまで⾏ったらこ っちまで戻ってきてっていう映像が、なんか良かったというか」
桑原「そうか、じゃあいろんなところで撮ったものを、あれだけの素材にして、使ったんだ」
⽊津⾕「うん。なんかちょっと上がっていく階段あるじゃん」
桑原「うんうんうん、螺旋階段じゃないけど!みたいな階段ね」
⽊津⾕「そう、けど!みたいな階段があって、そこをひたすら登ったり降りたりみたいなのとかも撮ったり、ただの平坦な道を⾏ったり来たりするみたいなのとかも撮って」
桑原「へぇーそうなんだ、何カットも撮ったんだね」
⽊津⾕「撮った」
作品中の橋は、地理的に橋の両側に道があったという。(H のようなかたちで、真ん中の棒が橋)橋を⾏ったり来たりしたあとに、最後には、⽚⽅の縦の線の道に彼⼥が歩いていく。
⽊津⾕「最後は、ここ(橋を)⾏き来することをやめて、こちら側別の道に⾏くみたいな、そうゆう場所を選んだんだと思う」
桑原「うん、なるほどね。じゃあ、編集の時に決めたって感じか、構成というか、この映像を使ってとか、これを繰り返してとか、⾔葉を⼊れてとか」
⽊津⾕「そう」
桑原「それは結構、感覚的な感じ?」
⽊津⾕「たぶんそうかもしれない。でもすこし今の⾃分の解釈がまざる」
桑原「ね、そうだよね。」
最後に⽊津⾕さんの前作「ウロボロスのなんだっけ」と「にわとり」を完成させた時にの展⽰作品と映像作品の感じた違いを話してくれた。
桑原「その当時の話になっちゃうけど、ウロボロスのときから、同じことばっかり考えてるなぁってことが基盤になっているって感じだよね」
⽊津⾕「そうだと思う」
桑原「夢っていうのもキーワード的には」
⽊津⾕「あると思う」
桑原「現実とは少し離れた時間のようなものだよね」
⽊津⾕「うん。絵画と組み合わせようと思ったのも現実じゃないもの。なんだろう、抽象的な模様、⼼情表現みたいな具体的じゃない絵と映像ってけっこう具体的な作ったものじゃん。それを組み合わせるみたいな」
桑原「それおもしろいよね」
⽊津⾕「展⽰の時はそれがはっきり⾒えたけど、映像の時に組み合わせたら、ただのレイヤ ーになっちゃって、絵の部分が」
桑原「なるほどね」
⽊津⾕「だから、なんだろう、上映会で⾒てて、最初絵画のレイヤーが出てきた時、え、液晶に傷?って思ったの。⾃分のだってわかってるのに」
桑原「たしかに、組み合わさってるっていうより映像に取り込んでるみたいな感じになっち ゃうもんね」
⽊津⾕「そう。絵画と映像を組み合わせようっていうのも、この時にやろうとしてたことの⼀つなんだけど、展⽰作品でで⽣きていた事が、映像作品になったとたんに、ただのレイヤ ーになっちゃって、だから、エフェクトとか⾊変えるのとかと同じレベルのものになっちゃ ってて」
桑原「うんうん、たしかに、⼀枚板になっちゃうよね」
⽊津⾕「そうなんだよね」
桑原「最後に⽊津⾕さんは、どの要素が注⽬というか、意識したこととかある?」
⽊津⾕「⼀番はなんだろう、⼀つは、螺旋状の繰り返しているものというのと、もう⼀つは⾔葉かな」
彼⼥と対談をしている中で「にわとり」の制作は、彼⼥の中にあるイメージと、⾃⾝の感覚、それから考えを取り⼊れているが、散らばってしまう要素にはなっていなく、集約されている感覚を持つ。それは、螺旋状という基盤がしっかりあるからかもしれない。