sacrament
32'33"
Artist: Anzu Murakami
Curator: Hiyori Yamamoto
Cast:She...Aina Horikoshi Girl...Hiyori Yamamoto
Director Camera Edit:Anzu Murakami
作品解説
周囲の視線のシガラミ
この作品では“彼女”と“少女”が存在する。
本作で村上さんは演者揃っての演出指導はなかった。二人同時に演出することで意識的に相手とのタイミングを図り予定調和に合わせてしまうためそれぞれ個々に指導した。脚本は 3 ページ。セリフは削って必要最低限に。言葉を使わず視線や目線だけでどう伝えるか。そして、共在ではなく“彼女”と“少女”それぞれが存在するということが重要だったという。
作中では、朝昼の屋外でないと光を取り込まないトイカメラで撮った写真がある。夢の中での幻想、意識の中を漂っている浮遊感、目眩や立ちくらみの中に映る白昼夜を想起させる“彼女”と“少女”の写真だ。その写真の中で“彼女”がひとり鮮明に映ってこっちを見ている写真があ った。“少女”から見た“彼女”と“彼女”から見た“少女”の違いというものを感じた。
“少女”と会っていないときの“彼女”はまるで人形のようだった。体内には血液が流れているはずなのに体外は死んでいるような、何かに制御され息苦しそうな“彼女”がいた。人間は心臓で血液が作られる。その血液は身体のあちこちに栄養を運び血液は再び心臓へ帰ってくる。生物は血液に生かされている。血液の巡らない身体はただの肉の塊になる。脈が打つたびに生きることの無力さを感じてしまう。そんな無力さを感じさせる彼女の体内を巡る血液が速度を上げて心臓に帰 ってきたとき体外は一体何をしているのだろうか。体外が誰かに見られているとき体内の血液は一体どのように巡って行くのだろうか。
“彼女”と“少女”が存在している音に耳を傾け、見ている方々が二人にとっての“誰か”となり“彼女”と“少女”の存在を目で追って欲しい。
Commentary
Chains of the surrounding gaze.
In this piece, there is a "she" and a "girl". Murakami avoided instructing the actors together as a group. She was afraid by directing two or more actors at once, they might try to synchronize their acting. The script was only three pages long. She kept it to the minimum. Challenging how to carry the message through the eyes and looks alone, with least words. Murakami said it was essential that "she" and the "girl" not rely on each other, but stay independent.
A photograph is shown in the film, taken with a toy camera that can only capture light in the daytime outdoors. Photo of "she" and the "girl" evokes the illusion of a dream, a floating awareness, and daydreams within the dazzles. There was a photo of "she" surely looking this way. I understood the difference between the way "she" looked at the "girl" and the way the "girl" looked at "her".
While "she" isn't in front of the "girl", she is like a doll. Blood inside her body should be flowing, but the way she looks from outside, she is lifeless, having a suffocated look of being controlled by someone. Blood carries nutrients from the heart to parts of the body and back to the heart. All living things depend on blood. A body without blood circulation is just a lump of flesh. With every pulse, we feel the helplessness of life. What are the inner desires of "she" and the "girl", dressed like dolls? While blood circulates through their bodies from their hearts and back again? What does their skin touch? Please don't miss their presence and the moments they are living.
作者から・・・
周りからの視線を意識するということは今を生きる私にとってごく当たり前のように存在していて、私の周りに生きている人たちも常になにかしらのカメラの前で生活している。スマートフォンの内カメラ、パソコンの内カメラ、今や色々なカメラが街や私たちを取り組んでいる。
街中でカメラを回すことは不思議なことではない。渋谷ではテレビ局のインタヴューワーが街ゆく人々にいろいろなことを聞いて回っているし、駅のホームでは自分たちの自撮り動画と音楽を合わせたアプリを使用して、楽しげに映像をスマートフォンで撮っている女の子がいる。
しかし、その中でも大きな違いが見られる出来事があった。人混みに家庭用のビデオカメラを回す時、目の前に行き交う人々は、気にはするものの何のないように通り過ぎて行くのだが、撮る機械をスマートフォンに変えた途端、私の存在に気づいたように避けて顔を隠して歩いたり足早になったりする。動画で撮ることが日常となった今、なぜスマートフォンだけ避けられやすいのかと考えた時、私は即時にどこでも投稿できることが理由になっているのだと思う。
そんなカメラに近い存在が“少女”なのだと思う。自らの身体を近くで観察したり、他人から見た自分を自覚したり、映像を通してそんな過程を覗き込んで初めて自己を見つめて行くのだ。
作家プロフィール
村上 杏(原案・監督・脚本・編集・撮影・写真)
1999年6月24日生まれ 神奈川県出身
東京造形大学在学
過去作品
ポートレイト・シリーズ(2015-)/パラノイア・ヘッド(2017)/Lucid Dream(2017)/Meat Murder(2018)/空が墜落する(2018)/人の顔(2018)/鉱物棺 mineral coffin (2019)/ hipster (2019)
キュレーター プロフィール
山本 和 (1999/09/10)
東京造形大学映画・映像専攻在学
出演作品
『冥々』(18/桑原咲羽監督) 『しかい』(19/桑原咲羽監督) 『fr(l)esh』 (19/山崎美樹監督)
作品
『ホクロとばあちゃん』(zine 2019)『私たちの部活への距離感』(zine 2019)
村上 杏(監督)×山本 和(キュレーター) 対談
村上さんが本作の着想を得たのは少女の消費を感じたときだ。
物語や作品の中で幼い少女の裸体がアートとして残される残酷さ、表現の身勝手さ、女性という存在が男性からすると虚像のように捉われる感覚に違和感を感じていた。フェミニズムデモに参加している女性たちは新聞やメディアに取り上げられデモに参加すらしていない悪意ある人たちに外見が批判されてしまう。「ブスのくせにデモやっている」「モテなくてひねくれた女どもの末路」「胸がでかい態度もでかい」など数々の女性を蔑んだ視線。『女の子をそういう目で見て欲しくない』 女性への視線というものが彼女を本作の制作に駆り立てていく。
消費されていく自分
杏「やっぱりこう、1秒1秒生きているわけじゃん。肉体として。その中でも自分の自撮りが流れてしまったり、一瞬目に入っただけで消費されていく自分というものが。やっぱり儚い」
和「生きているだけで消費されていくものなのかな、やっぱり人間って」
杏「んー。されかたにもよるけどね。自分をよく見せるために加工したものもどうせインスタに乗せて流れる。それをちゃんと見ている人がいるかもわかない。だけどみんな乗せちゃう。不思議だよね。自分の個人の記録として乗せている意識でやっているけど、全世界に発信にしているわけだから、もはやプライベートってどこにあるのだろう?」
和「うん」
杏「私たちの世代は映画の凝り固まった世界を変えていかなくてはいけないと思うし、女性の身体の表現をどう変えて行くかが大事だと思う。私の作っているものは切り離せない、女性の身体や顔っていうものが」
和「杏さんにとっての女性の身体とは」
杏「んー。難しいな。(笑)でも、突き詰めていくとやっぱり皮膚なのかな」
和「皮膚?」
杏「うん。高校生の時に『生きる肌を纏う』っていう写真集を作ったの。服って着て、肌に触れた時自分の身体の存在が認識できる。自分の体がどこにあるのかって鈍感だけど、衣服が自分の体に触れることで自分の形がわかってくる。逆に何も着ていないと自分の体がどこにあるのかわかんない。」
和「うん」
杏「例えばタオルをかぶることで初めて自分の体がここまであるんだって認識できる。自分の存在がどう自分で認識できるかの始まりが衣服なのかなって思う」
うごめく皮膚
杏「自分の肌が透けて血管が見えるとか痣ができて点々ができているとか」
和「赤い点々とか?」
杏「そうそう。点々ができて痣できてとか、服とか、寝ると服のシワが手に写ったりするのとかを撮っていたりした」
杏「作中の“彼女”も鏡に向かって洗顔する場面で、自分の肌を触らせるのも視覚として触れることで自分の形がわかる。曖昧になった輪郭を触って確かめる。これって自分の肌なのかな?この裏には何があるんだろう?そういう体の観察的なニュアンスもある。」
和「自分の顔って鏡を見ないとわからないから、わたし人と話す時に頭の中で自分の顔を美化しがちなの。その後トイレで鏡を見ると想像の顔と鏡に映る顔が違っていてあれ?って思う時がある」
杏「あるある。だから一番裸な部分は顔なんだよね。隠せないところっていう意味で。だから顔っていいんだよね。人間の顔好き」
サクラメント (英:sacrament 羅:sacramentum)は、キリスト教において神の見えない恩寵を具体的に見える形で表すことである。それはキリスト教における様々な儀式の形で表されている。
日が落ちて真っ暗な夜に見て下さい
街の明かりをカーテンで遮断して下さい
部屋の明かりも付けないで下さい
そして、
Sacramentが見えなくなった時目を閉じて自分たちの視線を遮断して下さい
自分がどういう目線で “彼女”と“少女”を見ていたのか
少し考えてみてください