REPORT
MEDIA PERFORMANCE WORKSHOP


[主催] Dance and Media Japan

[協力] CMprocess、錬肉工房、岡本章、松尾邦彦、及川ギガ、松室美香、上月一臣、木下圭子、 タブチユウジ、堀宏行、酒井聡、田村洋、平田昌太郎、筒井真佐人

[助成] 財団法人セゾン文化財団

MEDIA PERFORMANCE WORKSHOP VOL.1 & VOL.2
2006年7月10日〜13日、東京・森下スタジオにて、「メディア・パフォーマンス・ワークショップ」が開催されました。テーマは「サウンドスケープとパフォーマンス」でした。

毎年開催している「メディア・パフォーマンス・ワークショップ」 。今年は、VOL.1、2、3と3段階にコンセプトを分けて開催しました。これまでのワークショップでは、「理屈は後にして作品を作ってみる」ということを目指してきたが、今回はあえて「理屈」を入れ込んでみました。VOL.1、2は、理論的なアプローチに重きを置き、VOL.3はこれまで通りの作品制作を行ないます。こうした方法でワークショップを行うきっかけ、そしてワークショップの中で感じたことなどをレポートします。

イベントURL
VOL.1
http://www.dance-media.com/mpw2006/index.htm
VOL.2
http://www.dance-media.com/mpw2006/index2.htm

レポート/飯名尚人 Dance and Media Japan

錬肉工房 『水の声』 テクノロジーと表現

『水の声』 の記録映像から。右側にあるのが、音響彫刻。

音響彫刻は、井戸のようになっており、上から水滴と小石が落ち音が鳴る。

錬肉工房の『水の声』が上演されたのは1990年。今回メディアとパフォーマンスのワークショップを開催するにあたって、『水の声』は大きなきっかけとなっている。
1990年当時は現在のようにコンピューターがまだまだ高価であったし、処理能力もさほど高くなかった。まず重要なのは、そういった時代背景の中で『水の声』が上演されたということだ。
能楽堂に置かれた音響彫刻、役者の声などをリアルタイムレコーディングし、信号変換、エフェクトし、舞台音楽を作る。
演出/岡本章、音響彫刻/美音子グリマー、音楽/藤枝守。そして、テキストはイェーツ「鷹の井戸」、横道萬里雄「鷹姫」の流れを汲み、基盤に作られている。
役者の演技はほぼ即興的に行われているそうで、音響彫刻も定期的な音を発するわけではない。凍らせた石の彫刻から溶け落ちる小石と水滴が井戸の中の竹に当たって音を発する。落ち具合によって音の印象も異なるだろう。舞台上には即興的な要素が満載だ。しかも、音は偶発的に生じる舞台上の出来事からサンプリングされる。

なにしろ「これが1990年に上演された作品だった」ということに驚いた。2006年現在、「コラボレーション」「インプロヴィゼーション」「インタラクティブ」などといったキーワードをよく目にする。我々DMJもそういったコンセプトを持って活動してきたが、1990年〜2006年の間に発展してきたことはいったい何か?という素朴な疑問が生じた。
悲観的に言えば、「技術は発展したが、アイディアはあまり進歩がないのではないか?」とまで感じてしまった。
デジタルメディアと舞台芸術を組み合わせることは、手段であり決して目的ではない。
ワークショップそのものも手段であって、問題提起そのものである。今回のワークショップでは、「問題提起」することを目指した。そして、「コラボレーションしましょう」「インプロヴィゼーションやりましょう」「インタラクティブなものを使いましょう」ということも一切排除した。コラボレーションすることで、必ず良い作品が出来るわけでもないし、デジタルメディアを使うことが絶対必要な条件でもない。DMJが今後行っていくべき方向性を見定めるためにも、このワークショップは重要なものであった。

プロセスの生成


錬肉工房主宰の岡本氏からお借りした当時の貴重なパンフレットの中で「即興性」「関係性」「プロセス」について述べている箇所があった。「通常考えられている軽いアドリブやなんか、といったレヴェルじゃない即興性というか、関係性の生成そのもの、プロセスそのものであるような即興性ということが出来れば面白いんじゃないか」(パンフレット、対談より引用)。

たとえば我々日本人は「5×4=20」という数式を「九九」という暗記法によって瞬間的に答えを出す。しかしアルゴリズムとは、暗記ではなく「乗算の仕組みを理解する」という作業になる。その仕組みさえ理解すれば、どんな乗算も問題なく出来る、ということだ。暗記の応用はないが、アルゴリズムを理解すれば、その先には応用しかない。
能においては、上演メンバーが毎日同じメンバーで練習を繰り返し、舞台に立っているわけではなく、「能」のアルゴリズムを全員が理解、習得することで、初対面のメンバーでも作品を上演することができる。岡本氏の言う「関係性の生成そのもの、プロセスそのもの」は、デジタルメディアとのコラボレーションを可能にしたアナログとデジタルの本質的な接点としてとらえることができるだろう。

コンピューター音楽は、即興が苦手な楽器である。3人のラップトップ・ミュージシャンが集まってスタジオに入っても、ジャムセッションが難しい。ギター、ベース、ドラムが、「じゃあまずコードGで8ビートね」というような具合には行かない。それは、コンピューター音楽が「レコーディング」のための機械だからだ。楽器同士のセッションはないが、この『水の声』で実現されたのは、「あるシステムに基づいた、役者、音楽、舞台美術のジャムセッション」であった。
しかも、そこにあるシステムは「暗黙の了解」といえば良いのか、ハード化できないなんらかの情報基盤がある。


クリスティアン・ツィーグラー 『scanned』 『turned』


2001年、ドイツのメディアアーティスト、クリスティアン・ツィーグラー氏が制作した『scanned(スキャンド)』は、音と映像をダンサー(ジャヤチャンドラン・パラジー氏)が踊ることによってコントロールし、最終的にはリアルタイムにキャプチャーしたダンサーの映像をその場で加工してVJする、というエキサイティングな作品だ。いままで目の前でダンサーが踊っていたいくつかのシーンは、最後のシーンでビデオアートとなって再現されるわけだ。
「観客が見ていたダンスの記憶の再現」「ツィーグラー氏一人の視点からみた印象の再現」という強い作家性と、デジタルテクノロジーそのものの即興性を作品化した。
ツィーグラー氏は、このシステムを実現するにあたり、1台のノートブックPCとデジタルビデオカメラだけを使う。非常にシンプルなシステムだ。デジタルメディアアートの進化は、コンピューターテクノロジーの進化と共に発展している。「デジタルテクノロジーを使った即興」を可能にしたのは「MAX/MSP,JITTER」というソフトウェアである。このソフトウェアの出現と開発によって、ダンサーが動くと音の周波数が変化する、などといったコラボレーションが実現しやすくなった。
「MAX/MSP,JITTER」を使う重要なコンセプトは、「オブジェクト」という考え方である。
たとえば、再生、という機能をもったプログラムに、素材をインプットし、映写をアウトプットさせれば、ビデオデッキとテレビ、というシステムが出来上がる。こうした機能の連続で、より複雑なシステムが組みあがるわけだ。インプットとアウトプットという仕組みさえ理解できれば、「MAX/MSP,JITTER」は様々なシステムを可能にする。

 
"scanned" by Christian Zeigler
ダンサーは1名。非常にシンプルな機材で即興的にデジタルパフォーマンスが作られていく。
最終的には、ダンサーのコラージュ映像がリアルタイムVJとしてパフォーマンスされる(写真右)。

『turned』 by Christian Zeigler
2006年にクリスティアン・ツィーグラーが来日したときに上演されたのは『turned(ターンド)』である。技術的には『scanned』と似ているが、この作品のコンセプトは「ダンサー、映像、DJのジャムセッション」である。ステージにはダンサー/池田一栄、DJ/フローリアン・メイヤー、映像/クリスティアン・ツィーグラーの3名がいて、そこで即興性の強いセッションが行われていく。3ピースのロックバンドのように、セッションされるこの作品は、ダンス作品でもメディアインスタレーションでもDJパフォーマンスでもなく、そこにあるのは「ジャムセッション」という関係性である。

次の展開はあるか?

『水の声』『scanned』『turned』を見てきて、その次の発展として何があるだろうか、という疑問に行き着いた。
テクノロジーの進化は、表現の進化とも言えるが、「人が動くと音が鳴る」というシステムが安価で容易に実現可能な時代に突入し、その先にはどんな可能性があるだろうか。
「人が動くと音が鳴る」システムを使って作品を作ることは、いくらでも可能であり、そういった作品作りをもっと行って、検証していくことも必要である。
が、ワークショップの中で「マニュアルにそって全員が同じモノを作っていく」ことは、あまりにもつまらないし、ファシリテーターがすでに答えを持ってしまっているイベントも面白くない。
全員が何か問題を抱えて帰宅するようなワークショップを狙い、特定の答えを強制しない内容に、と思い、松尾邦彦の『CMprocess』に基づいたワークショップを開催することになった。

松尾邦彦 『CMprocess』

松尾邦彦氏の『CMprocess』システムは、ツィーグラー氏が個人の視線だったのに対し、集合体、というものを持ち出す。
渋谷のスクランブル交差点で日々繰り返される単純なルール。システム。赤信号で人が止まって、青になったら人が同時にそれぞれが別の指向性を持って運動を始める。その運動の中には、それぞれが自由にルールを持っていて、しかも途中でルールを変える。丸井に行こうと思ったけど、やっぱり109に行こう、とか。そういった運動のレイヤーが無数に重なって、誰かがコントロールしているわけでもなく、淡々と一生懸命に運動が繰り返されている。
そもそも松尾氏のコンセプトは『ある特定の美意識の排除』『ノン・ダンサー、ノン・ディレクター』というもので、権力のピラミッド構造のない状態で、ダンス、映像、音楽を生成していく。


CMprocessの詳しいコンセプト
http://www.cmprocess.com/jp/outline_jp.html
楽譜に音符を書いて、オーケストラなら音のレイヤーがタイムラインに沿って作られていく。『CMprocess』では、その方法論を創作プロセスに持ち込んでいく。デジタル世代の音楽生成のように、シークエンスにカット&ペーストで音を並べて、エンターキーをぽんと押せば、アンサンブルが流れる。いきなり全体像を発生させる方法。
こうしたシステムの中では、誰かが美しく踊る、ということよりも、全体が音楽で言えば「グルーヴ」を作り上げることを目指す。個の集合体がシンプルなルールの繰り返しによって、大きな「うねり」をもたらし、これこそが日々繰り返される「社会」という集合体となっている。
松尾氏のレクチャーでは、「臨界点というのがあって、10人程度だと見えにくいかもしれない。1万人、10万人という数が、こうしたシンプルなルールで繰り返し動き、それを鳥瞰してみたときにシャーレの中の微生物のような風景が見えてくる」。

ワークショップで行われたのは、5m×5mの正方形の中に9つのエリアを作り、番号をつける。
ダンサーは、各自「A→1→5→3→9→F」という風にインプットとアウトプットを決める。この道筋をレイヤー1として、レイヤーを複数作る。さらに、「5に入ったときに、何か踊る」「別のダンサーと9で出会ったらレイヤー3に切り替えて、自分のルールを変える」という「各自のルール」がそれぞれ好き勝手に作られていく。こうして好き勝手に出来上がったルールを、お互いのダンサーが理解する必要はない。自分のルールすらも放棄して、ステージの真ん中で「ずーっと寝ている」ということも起こりうる。


    
ダンサーは複数の行動パターンを持つため、図のようなレイヤーが出来る。
10人のダンサーがいれば、10人×レイヤー数の動きが生成される。さらに、即興的な行動パターンの変更も生まれるため、毎回違った「群舞」がステージ上で生まれる。

音楽は、30秒ごとに切り替わるが、初めの30秒でどのエリアに人が一番居たか、という最大瞬間人口密度を測定する。9つのエリアにはそれぞれ別のサウンドがセットされており、次の30秒の音楽はダンサーたちが偶然生み出す人口密度の高いエリアのサウンドが再生される。
このシステムには、ビデオカメラと「MAX/MSP,JITTER」が使われた。このソフトの特長としては、あらゆる運動を数値に置き換える、ということが可能なことだ。人がどのくらい多く動いたか、早く動いたかなどを、たとえば1〜255に数値化すれば、RGBに置き換えてダンサーと色をリンクさせることも可能だ。

『CMprocess』のコンセプトは、単にダンスや演劇のメソッドではなく、都市における人間の行動や我々が日々生活の中で繰り返すコミュニケーション、その中にある即興性など様々なことに気がつかされる。そして、個人が集まって集合体になったときに個人の意図しないことが巻き起こっている、というカオスも生じる。この発展をみていると、「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」という「バタフライ効果」を思い起こした。

ダンスにおけるアルゴリズム

以前から「ダンスの最小単位」ということを考える。映画ではよく議論されてきたことだが、映画の最小単位はショットなのか、セルなのか、という議論である。写真の連続である映画は、物質的な最小単位は1枚のセル(一枚の静止画)だ。別のアプローチとしては、ビデオカメラで撮影した作品は映画なのか?フィルムで撮影したものが映画なのか?などなど、色々な考え方があり、決定的な答えはない。
どれも本当っぽいし、どれもどうでもいいことに思えたりもする。実際にその議論はここではあまり重要ではないが、「最小単位」という考え方は面白い。

ウィリアム・フォーサイスが1994年にZKMで制作したCD-ROM『インプロヴァイズド・テクノロジー』には、フォーサイスのダンスメソッドの最小単位が記録されている。
バレエ団のダンサーに自分のメソッドを叩き込み、即興で踊らせてもメソッドに基づいていれば、際限なく踊り続けられるような内容だ。
フォーサイスのダンスメソッドの最小単位は、「点と点を線で繋ぐ」という一つのアクションのように思える。この仕組みの基礎を理解すれば、アルゴリズム的に展開が可能だ。
点を増やす、線を増やす、線を切る、線を繋いで立体を作るなどの展開を、イメージしながら進めていけばより複雑なインプットとアウトプットが出来上がり、即興でも動きに破綻が生じにくい。

ダンス的なアプローチで『CMprocess』を利用する場合には、フォーサイスのように各ダンサーを制御する動きの組み方を共存させるとよいかもしれない。もちろんそうすることによって、本来の『CMprocess』が目指すものとは別のものになるだろう。
しかしシステムは柔軟であるべきだ。「Photoshopは写真を加工するソフトだ」とはいえ、別にイラストを描いてもよい。『CMprocess』をソフトウェアとして利用することは、作品の制作プロセスを考える良い機会となるだろう。



方法論の提示

『水の声』では、能、現代演劇、コンピューター音楽、彫刻というものが同時にステージにあがる。クリスティアン・ツィーグラー氏の作品でも、ダンス、DJ、VJが同じライブでセッションする。そして、CMprocessでは、ダンスだけでなく、都市の中で生じる人の動き、にまで拡大されていく。
元々は「サウンドスケープとパフォーマンス」というテーマで進めてきたワークショップも、単に環境音楽、デジタルメディア、ダンスといったカテゴライズに分けて考えることが不可能なほど、すべてがミックスされていた。
ダンス作品をつくろう、演劇作品を作ろう、という内容的な作業の前に、「物事の考え方」といった根本的な問題提起がされたワークショップになったと思う。