REPORT
MEDIA PERFORMANCE WORKSHOP


[主催] Dance and Media Japan
[助成] 財団法人セゾン文化財団

MEDIA PERFORMANCE WORKSHOP VOL.3 下田
2006年8月1日〜4日、伊豆半島下田にてワークショップVOL.3を開催。VOL.1,2で体験してきた「CMprocess」を踏まえ、実際の作品作りを行ってみた。3,4日の短期間で作品を仕上げることは、まず不可能。でも、無理を承知でやってみた。そのレポートです。

イベントURL
VOL.1
http://www.dance-media.com/mpw2006/index.htm
VOL.2
http://www.dance-media.com/mpw2006/index2.htm
VOL.3
http://www.dance-media.com/mpw2006/index3.htm

VOL.1,VOL.2 レポート
http://dance-media.com/report/ws2006/index.htm

レポート/飯名尚人 Dance and Media Japan
このワークショップが目指すモノ

昨年から伊豆半島の下田での合宿形式ワークショップを行っている。これまでは東京の廃校となった小学校などで開催してきたが、常に参加者やスタッフの時間的な制限に縛られてきた。つまり「終電」という大問題である。なぜそれが大問題かというと、こうした作品を実際に作っていくワークショップの場合、お互いをどの程度知り合うか、ということが重要であったりもする。わずか4,5日間のワークショップの期間中くらい、どっぷりと四六時中、アートについて考えていたい、というのが実際のところだ。

こうした理由で、合宿(キャンプ)という方法を取ることにした。
短い時間であるが、ダンスカンパニーのメンバーのような関係で作品を作ることが出来るのではないかと思う。ドイツの映画監督ヴィム・ベンダースの映像理論の中に、「motionがemotionを作る」というようなものがある。 ロードムービーの中で少しずつ時間をかけて、感情や関係が変化していくわけだ。
重要なのは、色々な意味での「関係」である。人と人、場所と作品、音楽とダンスなど、「関係」という言葉でそれら物事を考えると、「関係」は何かしらどこかに存在している。そして、その「関係」が「連続」していくことも重要だ。


写真 新堀学
今回のテーマは「サウンドスケープとパフォーマンス」である。とはいっても、実はなんでもありだ。作品を発表する会場は、洞窟海岸。波の音がミニマルに洞窟に響き、立っているだけで頭がボーっとしてくる。吹き抜けになっているため頭上からは蝉の声が、これもまたミニマルに響き渡る。自然科学の発想で考えれば、波の音も蝉の声も、おそらく何らかの周期、ルールを持って、その状況を生み出している。しかしそのルールは我々にはすぐには分からない。もしかすると永久に分からない。ワークショップVOL.1,2で考えてきた松尾邦彦氏の「CMprocess」を思い起こすと、それぞれのルールが無数のレイヤーで重なり合って、関係し合い、影響し合い、あるいは、関係を壊し、影響させない、という複雑な構造となって、全体のうねり、をもたらす。こうした場所でメディア・パフォーマンスをするという課題は、簡単なようで難しい。
何をするかを考える


波の音を録音したりもする。この音をBGMに色々考え事をしたりする。
まずは参加者とともに、洞窟海岸を下見に。さあ、どうしたものか。今回は、映像や照明を一切使わないことも条件のうちの一つだ。

舞台を見に行って、その感想でよく耳にする言葉として「ダンスが空間に負けている」という内容だ。こうした自然の空間を使ったパフォーマンスを見に行って、「ただ立っているだけでいいのに」という感想も聞く。
本当に立ってるだけでいいのだろうか?空間に人が負けてしまうのはなぜだろうか。役者が立っているだけで、パフォーマンス空間が埋まるだろうか。そうするには、どう立てばいいのか。何を伝えることが出来るか?そもそも伝えたいことは何か?などなど。いろんなことを考える。強制的な時間共有を観客に迫る舞台芸術において、安易に「立っているだけでキレイだ」とは、なかなかいかない。

洞窟の向こうには海が広がる。
そうこうしているうちに、「みんなで、だるまさんが転んだ、でもやってみようか」ということに。参加者がいい具合に壊れてきた。海岸で遊んでいた子供も混ぜて、なぜか「だるまさんが転んだ」スタート。

その様子を見ていて思ったことは、当たり前だが「ルールがある」ということ。鬼役が振り向いたときには止まっていないといけない。動いたら、鬼につかまってしまう、というゲーム。ジャン・コクトーの映画「オルフェ」はギリシャ神話「オルフェ」を題材にした映像作品だが、別世界から帰ってきた詩人オルフェは、現世では妻の姿を見ると妻が消失する、というルールを課せられる。なので、オルフェは妻を見ないようにがんばる、というコミカルなシーンがある。オルフェが必死に妻を見ようとしない姿がコミカルに見える。鬼が振り向くと、足場の悪い岩場で一生懸命静止しようとする参加者と子供の姿がおもしろい。
感情論 vs 方法論


廃校なので、黒板もそのまま。
「だるまさんが転んだ」も無事終了して、合宿場所となった「田牛・青少年海の家」に戻る。この建物も昔は小学校だったそうだ。どこに行っても、DMJのワークショップはなぜか廃校にお世話になる。

ディスカッションでは、あえて「あの場所で何を感じたか」という感情論を行った。メディア・パフォーマンスの場合、方法論が先に来ることが多い。それはそれで良いのだが、方法の説明だけでは芸術にはならない。松尾氏の「CMprocess」は方法論として利用されることが多いようだが、実際は、「ダンスを観るより、渋谷のスクランブル交差点を見ているほうが面白いと思った」「振付家個人の美意識をトップダウンで振付られていくことへの反抗」「自分は命令もされたくないし、命令もしたくない」という松尾氏の深い心情から方法が導き出されたものだ。独自の方法論を生み出す必然性が、そうした感情の中にある。
ディスカッションの中で出てくる海岸の印象は「神秘的」「新生物がいそう」「犠牲」などなど、いろいろ。こうした話題の中からロシアの映像作家アンドレ・タルコフスキーの作品「ストーカー」の話題へ。「ゾーンというどんな希望も叶うというエリアの入り口を前にして、ゾーンを探して過酷な旅をしてきた3人が、ゾーンに入ることを思い悩む」というシーン。「そもそも自分はいったい何を叶えたいんだろう???」という葛藤のシーン。という具合に、いろいろとディスカッションが派生していく。
ある程度、意見が出きったあたりで、お腹がへったので、夕飯。もちろん、バーベキュー。

その後も夜な夜な、作品作りについて話しあう。音チームのメンバーとエレクトロニカ・即興セッション大会なども開催。ラップトップミュージックで即興にセッションするのは、非常に難しい。シークエンスを事前に組み、再生する、という構造そのものが、即興に適しない。MAX/MSPなどはそうした悩みの一部を解決する。とはいっても、即興性は楽器には適わない。難しいものだ。
相互に影響する仕組み



校庭の芝生の上でリハーサル開始。今回取り入れたルールは、
「CMprocess」や海岸で遊んだ「だるまさん転んだ」のようなゲームを混ぜ合わせて創作。
パフォーマー5名、音チーム5名。それぞれをどのように関係付けて、即興的、偶発的な現象を引き出すか、というもの。

昨年のダンスフォーラムの1ワーンでも使った演出だが、「ブラブラ歩いてて、相手と目が合ったら何かする」というルールが一つ。AさんとBさんはお互いに振付をし合っている。AさんはBさんと目が合ったら、その振りを行う。遠くにいても、目が会えば、いきなりデュオのユニゾンが始まる。5人がそれぞれに振付けあっているので、出会いを探して歩き回る。

さらに鬼ごっこルールも追加。自分以外の誰かに触られたら、その場で死なないといけない=倒れないといけない。また別の人に触れられたら、生き返ってOK。自分以外のすべての人を死なせることもできる。

さらに今度は、「この音が鳴ったら、この動きをする」「この動きをしたら、この音を鳴らせ」という、ダンサーと音チームの間のルールも追加。

3分毎にベーストラックで流れている音楽が変わり、普通に「逆鬼ごっこ」開始。鬼にタッチできたら、勝ち。タッチできなかったら、鬼以外は全員、死なないといけない。
というようなルールを、その場の思いつきでどんどん追加していく。
ある程度、ルールが増えてきたら、実際にやってみよう、ということになる。15分間連続でとりあえずやってみる。終了後は、記録映像をみんなで確認。

「草っぱでスポーツやってるみたいだなぁ」という感想。インドの「カバティ」とか、ルールがよくわからないけど、なんか一生懸命運動して、どうやら勝ったり負けたりしている、というのを観ている感じが面白い。
感情論と方法論を持って、いざ洞窟海岸へ。

とはいっても、草の上と水の中では、いろいろと変わってくる。水の中だと走れないし、スピーディーな動きがやりにくい。いろいろと試行錯誤して、振付を作り直したり、ルールを変えたり、参加者の悩みは尽きない。

無機質なルールの中の有機的なもの


洞窟海岸の図面 作図/新堀学

方法論だけでは、無機質な動きしか生まれない。「CMprocess」の一例としての「スクランブル交差点の状況」では、赤信号で止まって、青信号で歩く、という無機質なルールが基礎となるが、そのルールに従う人々は、各々がそれぞれ感情を持っている。「タワーレコードでDVD買おう」とか「なんか前にカワイイ女の子がいるなぁ」とか。だから、それぞれに向かう方向が異なり、即興的に方向を変えたりもするわけだ。

感情を入れ込むといっても「悲しい音楽が流れると、悲しい表情と動きをしたダンスが始まって・・・」では、ちょっと説明が過ぎる。そのバランスは非常に難しいし、それはもう「センス」ということになる。全体のルールは決まったので、世界観をどう出すか、という作業を考えていく必要がある。
こういう作品が出来上がった







参加者によるショーイングを観ていて、一貫した不思議な世界観があった。ディスカッションで参加者からあがってきた「神秘的な感じ」という世界観も維持されていた。
30分のパフォーマンスの間に、どんどん暗くなっていく洞窟も、偶然なのか効果的な演出を与えていた。音楽のないシーンで繰り返される波の音も、いろいろな動きをするダンサーと対比になっていて、面白い。
演劇的なシナリオはないものの、印象としては、「遭難して無人島に流れ着いた人たち」「クスリ打たれて、海に放置された人たち」「何かが脳ミソにインプットされて実験用ネズミのように、何かの実験をさせられてる人たち」とか。最後は、全員が海の方にボーっと歩いていくシーンだが、夕方になって波が荒くなっていて、薄暗い洞窟海岸をどんどん深くなっていく海に向かって歩いていく後姿は、何かに捕り憑かれているようで、結構怖い。
色々な作り方の模索

2003年から、DMJはいろいろな方法論でワークショップを展開してきた。今回のワークショップは、これまでのワークショップよりも問題提起が明確だった。VOL1のカンファレンス、VOL2の方法論ワークショップ。そしてVOL3の実践。
1996年に上演された錬肉工房の「水の声」に始まり、メディア・パフォーマンスの事例。そして現在、デジタル化されていく身の回りの事象に身体がどのように対応していき、我々はどんな思考をしているのか。ダンスにそうした思考を取り入れてみる、という実験。

いろいろな作品の作り方があり、どの方法が良いとも悪いともいえない。無数にある方法論のうちの一つとして、今回ワークショップで進めた方法論は役に立つだろう。